中澤語録その1『いじりといじめ』(中澤)

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中澤語録その1 「いじめといじり」

 こんにちは四期生の中澤佑太です。以前からやりたかったことですが、これから不定期になりますが、あることに対して私の持論を展開したいと思います。それでは第一弾、ご覧下さい。


 「いじられて苦しいです。どうしたらいいですか。助けてほしいです!」(私の言葉ではありません。)

 あれは、まだ私が、今では考えられないほど気が強かった、中学2年生のころである。当時、私は学習塾で児童を相手に悩み相談をしていた。悩み相談のきっかけは、塾内で泣いていた子を見かけ、解決まで見届けたら、次々と「悩みを聞いて!」と児童から声がかかつた。その様子を見て塾の人がありがたいことにコーナーを作ってくれた。

 書き出しは、相談者の一人の言葉だった。

 さて皆さんは、いじりといじめについてどう考えているだろうか。様々な考えがあるだろう。

 私の答えはただ一つ。『いじりはいじめである。』説明していこう。

 私の主張は、いじられるのを不快に感じる人(以下このタイプの人を『A君』とする。)に対して、いじることは、いじめであるということである。そう主張すると、「いやいやいじるのは愛情表現だし、構ってるんだし、仲間だからいじるんだし・・」と言い方は多用であるがそう考える人はいるだろう。その通りだと私は思う。

・・しかし、それは『いじる側の都合』ではなかろうか。つまり、「あなた達の中ではそうであっても、A君はそう思ってないよね。嫌がってるよね」ということである。

 《相手が不快だと意思表示したらその言動をやめ、さらにその言動をその人にしてくる他の人がいたら、「こいつは嫌がるからやめてやろうぜ」と言いあえることが、『本当の友情』ではなかろうか。》 これが私の持論である。

 勿論いじられるのがへっちゃらな人(以下このタイプを『B君』とする。)が多くいる。

 それは、『いじり合うことを了承しあい、いじり合うことを仲間の行為と合意している』関係が出来上がっているから成り立つのである。

 また、いじられるのを嫌がっているようで喜んでいると認識することがある。

 これも、お互いにそのことを認識しあっている関係が出来上がっているから成り立つのである。

 冒頭の悩みに対して私は、その子の担任の先生に、『いじられるのが嫌だと意思表示しているのにいじるのは、いじめであり、人間のすることじゃない。その子のためにも関わるな』という意味の文章を差出人を塾で相談した人として渡すようにした。

 その後、担任の先生は、いじってた人に伝え、その子達がいじられた子に「なんでチクったの?」という言葉を言ったそうなので、『いじめ』と断定し、担任の先生は、いじめ指導を行ったそうである。

 結果、いじってた子はその子をいじらなくなり、その子にも、新たな友だちができ、その子に笑顔が戻り、その子から「ありがとう」の言葉をいただいた。

 この考え方のためであろうか、時々相手は友だちと思っているがすれ違うことが、私にはある。しかしこの考え方によって私は、少なくとも地元の仲間とは、誰もいじらずお互いに気兼ねなく本音を言い合え、支えあえる関係を築いている。自慢できる人格をもった仲間であると私は思っている。

 いかがでしたでしょうか。改めて伺います。皆さんはいじめといじりについてどう考えますか。この記事を読み、この主張に意見がある方はぜひ記事で教えていただきたいです。こうしたことで記事が活性化できたらなと私は考えている。

 それでは次は実習後に今度はもう少し簡単な言葉をテーマにほのぼのとしたことを書きたいと思います。

 ではでは、これにて失礼します。Have a nice day.(中澤)


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