本日の朝礼では、下記の表彰も行いました。 おめでとうございます!
【東京都防災標語コンクール】 三枝さん(1年)
【東京都美術展覧会・出品者・国語科】 永岡くん(2年)
【同・美術科】石井さん(3年)石田さん(2年)五十嵐さん(1年)
【同・技術科】富山くん・福永くん・渡辺くん(3年)
【同・家庭科】遠藤さん・間さん(3年)
熊倉さん・村上さん・楢村さん(2年)
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ある基準によって、同じ国民の間に階層が生じてしまった社会のことを「格差社会」といいます。 日本もさまざまな分野が格差社会であると言われるようになり、それに伴って「勝ち組・負け組」という言葉で、人を大別するようにもなりました。
もちろん、スポーツをはじめ世の中には「勝ちか、負けか」をはっきりさせなければいけないことも多々あります。 しかし、私は所得や仕事、教育、健康、挙句の果てに恋愛や結婚まであらゆる物事を「勝ち組・負け組」と二極化して語ることに、少々違和感を覚えています。
一般に「勝ち」は良いことであり、「負け」は悪いことでしょう。 したがって、物事を「勝ちか、負けか」だけで判断すると、物事の評価も「良いか、悪いか」に二極化させてしまうのではないかと、私は危惧しているのです。
古い日本語には「良い・悪い」の程度を表す言葉が、少なくとも4つありました。 両極端な言葉から説明すると、現代の言葉でいう「良い」は「良し(よし)」、「悪い」は「悪し(あし)」といいました。 この2つを併せて「良し悪し(善し悪し)」という言葉も生まれています。
そして、先ほど述べたように、昔はその「よし」と「あし」とは別に「良ろし(よろし)」「悪ろし(わろし)」という言葉もあったのです。 では、「よろし」と「わろし」には、どんな意味があるのでしょうか。
現代語に訳すなら「よろし」は「悪くない」、「わろし」は「良くない」となります。 良い程度の順に「よし→よろし→わろし→あし」つまり「良い→悪くない→良くない→悪い」と並べると、4つの違いがわかりやすいでしょう。
私は、物事を「良いか、悪いか」の両極端だけで評価するのではなく、昔のように「よろし(悪くない)・わろし(良くない)」という2つの価値観を間に挟むだけで、人生は少しだけ生きやすくなるのではないかと思います。
例えば、受験。
人生には、高校受験だけでなく大学受験や就職試験、その後も資格試験や昇進試験など、さまざまな受験があります。 そして、「合否」という熟語で示されるように、その結果は「良いか、悪いか」ではっきり大別されます。
しかし、特に一方的に「悪い」で片づけられる失敗について、視点を変えてこうとらえてみたらどうでしょうか? 次に紹介するのは、発明王・エジソンの言葉です。
【失敗したのではない。 ただ、うまくいかない方法を見つけただけだ】
つまり、失敗したことで「自分に足りない何かがわかった」「次に成功するために、何をどう改善すればよいかがわかった」というのであれば、それもまた「よろし」=悪くないと受け止められます。
エジソンが実用的な電球を発明するまでに失敗、つまり壊した電球は、実に8千個とも1万個とも言われています。 いずれにしても、気の遠くなるような失敗の数です。
しかし、失敗は次の成功につながるチャンス、必ずしも悪くないと考えたからこそ、失敗による悔しさを再び次の実験に向かう推進力に変換できたのだと思います。
そんなエジソンには及びませんが、私も入試はもちろん就職試験や昇任試験で、何回も失敗しています。 教員採用試験は4回目でやっと受かりましたし、校長になるための受験も失敗し続けました。 しかし、そういう経験があったからこそ、今こうして、こういう話を、大好きな生徒たちに話せています。
【失敗したのではない。 ただ、うまくいかない方法を見つけただけだ】
そう考えることで、幾度となく経験した失敗もまた「よろし」=悪くなかったと、私は心から思えるのです。