本日の全校朝礼では、下記の表彰も行いました。
【バドミントン部】春季大会
男子団体=第3位 男子シングルス第3位=吉野くん
【卓球部】春季大会
女子団体=準優勝 女子ダブルス第2位=伊波&北原ペア
男子団体=第3位
男子ダブルス第5位=廣瀬&二宮ペア 同=竹中&高橋ペア
おめでとうございます! 今後のますますの活躍に期待しています。
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元号が変わり、本日が令和元年最初の全校朝礼です。
この大型連休中、4月29日が祝日『昭和の日』、翌30日が「平成最後の日」、さらに翌5月1日が「令和最初の日」ということで、3つの「時代の日」が3日連続で続きました。
そして、新聞やTV番組では、4月中は「『平成』とは、どういう時代だったのか」といった特集を、5月からは「『令和』は、どんな時代になるのか」というような特集を目にしました。
しかし、生まれも育ちも「昭和」の私は、せっかく3日連続した「時代の日」の中で、唯一「昭和」だけ取り上げられなかったことに、一抹の寂しさを覚えました。 そして、ふと思い出して、ある映画のDVDを視聴しました。
それは、『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画でした。 昭和30年代、西暦で言えば1950年代後半から60年代にかけて、まさに昭和ど真ん中の下町を舞台にした映画です。
物語は、建設中の東京タワーや前回の東京五輪の映像なども交えながら、夕日町三丁目という下町に暮らす人々の、温かい交流を軸に展開します。 これまでに3部作が上映されましたが、そのうち特に第1作目は、当時の日本アカデミー賞全13部門中12部門で最優秀賞を受賞した名作です。
その第1作目の次のキャッチコピーは、昭和生まれ・昭和育ちの一人として心から共感できます。
【携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう】
私は、無条件に過去を美化して「昔は、良かった」と懐かしむ懐古主義者ではありません。むしろ、そういう考え方には否定的です。 しかし、繰り返しますが、このキャッチコピーだけは、それを実際に経験した身として心から共感できるのです。
【携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう】
一方で私は、逆説的にこんなふうにも考えるのです。 【携帯もパソコンもTVもなかったのに】ではなく【携帯もパソコンもTVもなかったからこそ】あんなにも楽しい時代だったのではないかと…。
「平成」は、ネットや携帯の普及が一気に進んだ時代でもありました。 それは、私たちの暮らしを便利にしてくれた反面、生の人間のつながりを希薄にしてしまったようにも思います。
若者のコミュニケーションは、指で打つ文字に姿を変えました。 今や買い物も、店員さんとの会話なしにクリック一つで自宅に届きます。 先日は、あるレストランで一緒に食卓を囲んでいる家族が、それぞれのスマホ画面に見入りながら黙って食事する光景を目にしました。
日常生活の多くの場面で無人化や機械化が進んだこともあり、私たちの身の回りから人の声が消えていったこと、人と人との触れ合いから生まれるさまざまな生活音が消えていったことが、「平成」の一つの象徴であったように思います。
今、新たな時代「令和」を迎えました。 私は、この新元号に「昭和」の「和」が再び使われた偶然に、ささやかな期待を抱いています。 それは、私たちさえその気になれば、「昭和」の暮らしに根付いていた生の人間同士のつながりを、もう一度家庭や学校、地域で取り戻せるのではないかという期待です。
現代社会からネットや携帯をなくすことは不可能ですし、私もそんなことは望みません。 しかし、ツールであるはずの携帯やネットに依存し、振り回され、傷ついたり傷つけたりするのは、利便性の裏側に巣くった「平成」の暗黒面でした。
人間同士の触れ合いの中で笑ったり、泣いたり、怒ったりする楽しさ…。 スマホ画面に見入った顔を上げて、沈みゆく夕日の美しさに気づける豊かさ…。
「令和」が、そんな楽しさと豊かさを再認識できる時代になってくれればと、私は期待しています。