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3月10日(火)休校中のお知らせ(6)東京大空襲
本日は、現時点で特に新しい「休校関係のお知らせ」はありません。
さて、生徒の皆さんは、今日3月10日が何の日だか覚えているでしょうか。 というより、昨年の2学期始業式で配付し読み上げた『校長通信』(9月1号)に書かれていたことを、覚えているでしょうか。 『私たちの失敗』と題したその校長通信で私は、今から75年前の3月10日未明に起きた「東京大空襲」について取り上げ、戦争を二度と繰り返さないために、歴史を語り継ぐことの大切さを訴えたつもりです。 もう忘れてしまったという人は、下の『おりたたみ記事』に全文を再掲しておいたので、ぜひ読んでみてください。 少し長い文章ですが、休校中の時間のつかい方としては、決して無駄にはならないと思います。 校長 武田幸雄
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おはようございます。
2学期の始業式を迎えました。 私が1学期の終業式で話した『3つの落とすな』は守れたでしょうか。 学校の目の前で交通事故に遭った人がいてヒヤッとしましたが、打撲ですんだことは不幸中の幸いです。 今日から始まる2学期も、命・学力・品格を大事にしつつ、「東京で一番の学校」を目指して勉強や運動、文化活動に励んでもらいたいと思います。 さて、私はこの夏休み中、板橋区立中学校の代表生徒とともに「広島平和の旅」に行ってきました。そこで、本日は校長通信を使って戦争に関する話を読み、皆さんにも戦争と平和について考えてもらいたいと思います。 そのためいつもより長くなるので、熱中症対策も兼ねて教室での始業式としました。 これから聞いてもらう校長通信の中には、皆さんと同じ名字の人なども出てきますが、そんなことに気をとられず真剣に読み、そして、考えてください。 では、配られた校長通信を見てください。私が、読み進めたいと思います。 ★ ★ ★ ★ ★ 1945年(昭和20)8月6日、広島に原爆投下。同年8月9日、長崎に原爆投下…。 たぶん多くの日本人が、その日を「忘れてはならない日」として心に刻んでいることでしょう。 では、皆さんの中に、同じ年の3月10日に何が起きたかを問われ、即答できる人はいるでしょうか。 広島や長崎に原爆が投下された年と同じ1945年の3月10日未明、日本の首都・東京は炎に包まれました。終戦の約5ヶ月前、日本の敗戦もいよいよ決定的になりつつあったこの日、東京は下町を中心にアメリカ軍の無差別攻撃(B29型爆撃機 約300機による、夜間低空焼夷弾攻撃)にさらされたのです。 空襲時間約2時間30分、投下された焼夷弾(対象物を焼き払うため油脂を充填した爆弾)約33万発、死者約10万人、消失家屋27万戸(区部の約1/3が焼失)。これが世に言う『東京大空襲』です(被害状況には諸説あります)。ちなみに10万人という死者の数は、短時間の惨禍としては約14万人と推定されている広島原爆による死者に次ぐ多さです。 平成2年、東京都はこの東京大空襲が行われた3月10日を『東京都平和の日』と定めました。 東京に住んでいながら、広島や長崎に原爆が投下された日は覚えていても、同じぐらい多くの犠牲者を出した東京大空襲の日を知らない…。 そういう人は、中学生に限らず大人にも大勢います。 以前から私は、そのことが不思議でなりませんでした。 いえ、「不思議」というより、「残念」という表現をしたほうが適切かもしれません。 私は、当時皆さんと同い年ぐらいだった自分の父から、東京大空襲の1か月後の山の手大空襲の様子を聞かされたことがあります。 父は、母親(私にとっての祖母)と弟たち(私にとっての叔父)が田舎に疎開していたため、父親(私にとっての祖父)と二人暮らしでした。 その日、まだ夜中だというのに、辺りはすべての家屋を燃やす炎で昼間のように明るくなったと言っていました。 そして、祖父と二人、近所で唯一燃える建物のない場所、現在のJR埼京線・池袋駅〜板橋駅間の鉄道敷地内を目指して逃げたのだそうです。 そこにたどり着くまでの間、道路両脇の家がすべて火事で燃えていたので、まるで炎のトンネルのようになった道を走り続け、一命を取り留めたと聞かされました。 私の手元に、『東京が燃えた日』(岩波ジュニア新書)という本があります。 著者の早乙女 勝元氏が、自身の体験やさまざまな資料、罹災者の証言、記録等をまとめた書物です。 中学生である皆さんにもぜひ読んでもらいたい本の一冊ですが、今日はこの中に収録されている森川寿美子(すみこ)さんという方の手記を引用させてもらいます。 森川さんは当時24歳になる主婦で、輝一(てるいち)君(4歳)と、敦子(あつこ)ちゃん涼子(りょうこ)ちゃん(双子・8ヶ月)の3人のお子さんがいました。 ご主人は出征(しゅっせい=兵隊として戦地に行くこと)していて不在だったため、森川さんは荒れ狂う戦火の中から幼な子3人の命を、女手ひとつで守らなければならなかったのです。 紙面の都合上全文を引用することはできませんが、体験者にしか綴ることのできない生々しい手記の一部を読んでみましょう。 ★ ★ ★ ★ ★ 〈 前 略 〉 外の風はもう言葉にならない強さで吹きまくっている。人びとのもち出したふとんは、木の葉のように飛んでゆく。まりのように転がったまま起き上がれない子どももいる。私はどうしたらいいのだろう。近所の人たちはもうだれもいない。私が子どもの用意をしている間にみんな逃げてしまったらしい。 いつも森川さんをおいて逃げるようなことはしないわよ、といってくれていた近所の人たちも、この夜ばかりは、自分のこと以外考えられなかったのでしょう。 ★ ★ ★ ★ ★ 森川さんは輝一君の手をつかみ、双子の赤ちゃんを二人とも背負って、火の粉まじりの烈風の中を避難場所の公園まで逃げてきました。 しかし、間もなくその公園も炎に包まれてしまい、とうとう公園の隅にあるプールにまで追いつめられてしまいます。 もはや一刻の猶予もありませんでした。 彼女は氷点(ひょうてん)に近い冷たさの中、意を決して3人の子どもと共に水中に身を投じます。 火は、すでに近隣の小学校にまで燃え移っていました。 ★ ★ ★ ★ ★ ああ、火の粉は、私たちの頭の上から落ちてくる。 学校に燃えうつった火は、まるでプールの中の私たちのさけびをあざ笑うように、容赦なくふりかかってくる。 「おかあちゃん、熱いよ、おじいちゃんの所へいこうよ」「輝一、もうどうしようもないのよ、もうすぐ燃え落ちるまでがまんしてね」「うん」 力なくうなずいて泣く輝一を抱きしめて、私もあふれる涙をぬぐうこともできないのです。 背中の子たちはこの煙と熱さに、さっきまでの力もなくなったのでしょう、ときどき小さな泣き声を出すばかりです。 ああ、どうすればいいのだろう。どうしてやりようもない。 私はあつい地獄の火の中で、背筋のつめたくなるのを感じました。 かわいそうな子どもたち、こうして苦しみながら死んでいくのにおろしてやることもできない。 何というむごさであろう。 ああ、もうだめだ、こんな小さな身体で、最後の力をふりしぼって私に訴えているのであろう、小さな足が私の腰をけっている。ごめんなさい。ごめんなさい。敦子、涼子。さぞこの母がうらめしかろう。私は一瞬この火の海の中で、輝一もいっしょに親子そろって死んだほうが、どんなに楽だろうかと思った。 そのとき輝一が、「おかあちゃん、熱いよ、赤ちゃんもっと熱いだろうね、だいじょうぶ?」と声をかけてきた。 私はぎょっとした。 「輝一、だいじょうぶ、赤ちゃんおとなしくしているから、ぼくは男だもの、もうちょっとがまんしてね」「うん、赤ちゃんだいじょうぶならいいんだ。どこへもやらないでね……」 輝一は苦しげに私に訴えている。 力もつき果てそうな私に、輝一の声は神の声にも聞こえたのです。私には、輝一がいる。この子を何としても助けよう。 学校にうつった火の手は、もう目もあけられぬほど、私たちの頭の上におそってくる。 もしこのプールにとび込むのがもう少しおそかったら、私と子どもはすでに焼けただれていたことだろう。 身動きもできぬ人たちはおたがいにお父さん、お母さん、○○ちゃん、××子と肉親の名を呼びあっている。 私にはだれもいない。 林さんの姿も私の目に、はいらなくなってしまった。 すがるべき人はだれもいないのだ。 二人の子はもうすでに死んでいる。 背中で重くなった敦子、涼子の小さな身体が、私の肩にくいいるように感じられる。 そしてもう一人、私の手の中でだんだん弱まっていく輝一は、すでに意識もさだかでないのだろうか。 「輝一、しっかり。眠らないで、もう少しよ。輝一、輝一、おかあちゃんおいていかないで」 私は輝一の意識を呼びもどそうと、声をかぎりによびつづける。 この子を死なしてどうしよう。 輝一だけは助けよう。 私の姿は、さながら狂女のようであったろう。 火の手は弱まることを知らぬように、ますます大きくうなりを立てて落ちてくる。私は輝一を焼くまいと、輝一の顔へ自分の身をかぶせるようにして火を防ぐけれど、苦しく、熱く、ときに私自身ふうっと眠くなるような気持になってくる。 今眠ったら大変だ。こんなとき眠くなるのは一番あぶないことだ、とずいぶん昔だれかに聞いたことを思い出して、私はまたも、輝一、輝一と呼びかけるのです。 ああ、もうだめだ、こんな大きな学校が焼け落ちるまで、身動きもできない苦しさの中で耐えられるかしら。もうしかたない、心の底からあきらめに似た気持が湧いてきたときまた輝一が、「おかあちゃん、僕おとうちゃんに会いたいよ」とつぶやくように言った。 「輝一、がんばろう、もうすぐみんなに会えるのよ。おとうちゃんにも会えるからね。がまんして、輝一、輝一」と、落ちてくる火の粉をふせぎながら、私はもう一度、輝一をはげしくゆすったのです。 けれど輝一は、「赤ちゃんは大丈夫?」とつぶやいたきり眠りに落ちていきました。 ああ、この火はいつおさまるのだろう、おそろしいこの地獄の苦しみはいく時間つづいたのだろう。三月はじめの夜明けといえば、六時をまわっていると思う。 いつか火も弱まり明るくなってきたとき、私はぬけがらのような自分に気づきました。 そしてこの目で見た一晩の苦しみは、いく百人かの死体と、あまりにも変り果てたあたりの様子だったのです。 ぎっしりつめこまれたようにプールにはいった人たちは命長らえた人も気の狂ったまま、ただぼう然と立ったままの人も大勢いました。 またその人を助けあげる力も、すべての人はなくしていました。見るも無惨とはこのことをいうのでしょう。 私はなんの考えも浮かばない。 でもこの手の中には輝一がいる。 このおさない身体に、一夜の苦しみはあまりにも重く耐えきれなかったのでしょう、唇はもうすでに死んだように黒くなっている。 やっとプールからはい出た。 ぬれた身に吹きつける北風は輝一の身体を固くしていきます。 私は寸時(すんじ)もおくれてはならない。 でもどうしたらいいのだろう。くずれそうになる心をふり切って、背中の二人をおろしました。小さな手は母の肩につかまってなかなか離れない。家を出るとき着せた菊の花模様の着物の胸に住所、姓名の名札までつけて、いつもおとなしく眠っているときのように、二人ならんで死んでいる。私は、二人の上におおいかぶさって、泣きました。ごめんなさい、ごめんなさい。 私はただこれしかいえないのです。 輝一はますます唇を固くかみしめていく。 小さな二人は、もうすでに手のつけようがないのだ。今は、なんとしても輝一を助けなければ…。 ★ ★ ★ ★ ★ 残されたたった一人の子、輝一君を抱きしめ、あらん限りの声でその名を呼び続ける森川さんは、通りかかった警察官からサッポロビール工場の庭にある臨時救護所に行くよう勧められます。 そこで、冷たくなった二人の赤ちゃんに、焼けこげ、水につかった「ねんねこ」を掛けてやり、後ろ髪を引かれる思いで公園を出ました。 救護所に向かう路上は、まさに死体の山。 男女の区別もつかないほど真っ黒になった死体が、人形を焼きころがしたように散乱しています。 そんな町中を歩き続け、やっとの思いで救護所にたどり着きますが、そこに肝心の医者はいませんでした。 そのためやむを得ず、焼け残った知り合いの斉藤さん宅に身を寄せ、改めて医者を捜すことにしたのです。 ★ ★ ★ ★ ★ せまい家の中には、大勢の人がぬけがらのような顔で逃げてきている。ぬれた服を脱がせ、かわいたのを一枚貸してもらいました。斉藤さんの厚意でふとんもいただき、つめたく固くなっている輝一をくるみ、私はしっかり抱きしめ、摩擦をはじめました。 もう疲れも何もありません。なんとか助けよう、どうしてもと、無我夢中でした。だれか覚えていないけれど、熱いお茶を手渡してくれました。私は口うつしに、輝一の口に少しいれてやりました。初めちょっと苦しそうでした。 でも、輝一は「ううっ」と飲みくだしました。 ああ、輝一はだいじょうぶ死にはしない。 輝一がんばろう。 私はうわごとのように呼びかけながら、摩擦をしたのです。せめて私の身体の温かみを少しでもあの子にうつせるものならと、私は自分の肌に直接輝一をくっつけて、手を足をこすりました。 でも、輝一は最後の力をふりしぼったのでしょう。薄く目をあけ、小さな声で「おかあちゃん」とただそれだけいってもう息をしなくなりました。 「輝一、輝ちゃん、もう一度目をあけて、死なないで、だめよ、だめよ」 私は輝一におおいかぶさったまま、何もかも終わってしまった、もうなにもないと思ったまま、何かに引きずりこまれるようにわからなくなりました。 〈 後 略 〉 ★ ★ ★ ★ ★ 『東京が燃えた日』の著者である早乙女勝元氏によると、森川寿美子さんは、以上の手記のもとになる記録ノートを、東京大空襲の翌年の3月10日、子供たちの一周忌に墓参りから帰宅して書いたのだそうです。 どうしても「あの夜のこと」を書き残しておきたくて、亡き子らに話しかけるような気持ちで書いたのだといいます。 そして、手記の原稿には、次のような手紙が添えられていたそうです。 【あと何年かたって、日本中が戦争を知らない世代ばかりになった時、あの子たちの死んだことが、だれの心にも残らなかったとしたら、母として子どもにすまない気がして書きました。】 最初に『東京が燃えた日』を読んだとき、私は取り返しのつかない「過去」に対する悲しみと怒りを覚えました。しかし、森川さんの原稿に添えられていたという手紙を読み、森川さんの執筆動機、つまり、なぜ森川さんが「あの夜のこと」を書き残しておこうと思ったのかを知ったうえで読み返すと、悲しみや怒りだけではない、また別の思いがわき上がってきます。 それは、取り返しのつかない「過去」を、あらゆる可能性を秘めた「未来」に語り継がなければならないという使命感です。 生徒の皆さん。 私と一緒に考えてください。戦争は、なぜ起きるのでしょう? …いえ、その言い方は、無責任だったと思います。 戦争は、勝手に「起きる」ものではなく、人間が「起こす」ものなのですから。 では、主語を入れ替えたうえで、改めて問います。 人間は、なぜ戦争を起こすのでしょう? 自分たちの領土を拡大するため? より多くの資源を確保するため? 異なる主義や思想・民族・宗教が許せないから? 巨額の富をもたらす軍需産業という名のビジネスが、存在しているから? あるいはまた、人間という生き物が、本質的に同種間の争いを好む習性をもっているから…? その答えは人によって、あるいは、戦争によって異なると思います。ただし、誰が、どんな理由を付けようとも、すべての戦争に共通した紛れもない事実があります。 それは、戦争によってたくさんの血と涙が流れ、多くの命が理不尽に奪われたということです。 そして、その都度、誰もが嘆き、あるいは憤り、あるいは眉をしかめ唇をかんできたということです。 それなのに、歴史という大きな時間の流れの中では、次の瞬間また同じ失敗を繰り返してしまう…。 しかも、科学技術の進歩を背景に戦略や兵器の近代化が進むにつれ、失敗もまた、繰り返されるたびにますます多くの犠牲を出すようになっていきました。 20世紀に行われた戦争が「大量殺戮(さつりく)の時代」と呼ばれるゆえんです。 もう、人間はいい加減に気づくべきではないでしょうか。どんな理由をつけても、戦争は戦争なのです。そして、戦争とは、多くの命を奪い、多くの傷を人々の心と体に残すものなのです。そんな当たり前で簡単なことを後世に語り継ごうとしないから、人間は同じ失敗を繰り返してしまうのです。 私も、皆さんも、実体験としての戦争を知りません。 しかし、歴史を学び、後世に語り継ぎ、先人のはらった莫大な犠牲を無駄にしないよう心掛けるのは、あとに残った者の使命だと思います。 その使命を私たちが果たさなかったために、いつか私たちの子孫が同じ失敗を繰り返したとしたら、それはもはや彼らの失敗ではありません。 「私たちの失敗」なのです。 死んだ彼らが残したものは 生きてるわたし 生きてるあなた ほかには誰も残っていない ほかには誰も残っていない 谷川俊太郎 『死んだ男の残したものは』より この校長通信を読んだ感想、おうちの方や友達と話し合ったこと、考えたことなどがあれば、教えてください。私も、皆さんと一緒に考え続けていきたいと思います。 【学校日記】 2020-03-10 11:38 up!
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