2ヶ月ほど前、三浦春馬さんという人気俳優が、30歳という若さでこの世を去りました。報道によると自殺であるとのことです。
この私でさえ、生前に撮影されたドラマなどの映像を見るにつけ切ない気持ちになるのですから、ファンはなおさらでしょう。今なおSNS上ではその死を嘆く声や、追悼式の開催を求める声が後を絶たないそうです。
さて、その三浦さんの約2倍、60年近くにわたる人生で、私は今までに1度だけ死にかけたことがあります。ただし、当の私自身にその記憶はありません。なぜなら、それは私が生まれた時だったからです。
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私の誕生日は、1月2日です。それも夜中の12時を数分回ったところなので、もう少し早ければ元日生まれでした。そんなことから、お正月に親戚が集まると、90歳近くになる母から今もこんな話を聞かされます。
「お前を産むとき、陣痛がきたのが大晦日。それで急いで病院に行ったけど、なかなか生まれてこない難産だった。お医者さんの話では、へその緒が首に絡まって、お腹の中で動かなくなっているとのことだった」
「もう、この子は死産になると覚悟した時、お医者さんや看護婦さんに『お母さん、諦めちゃダメ。赤ちゃんも頑張っているんだから、お母さんが諦めちゃダメだよ』と何回も大声をかけられた。それで最後の力を振り絞った時、お前が生まれてきた」
そうして生まれた私は産声も上げず、いわゆる仮死状態だったそうです。生まれたばかりの赤ちゃんは「お猿さん」と形容されるように真っ赤なのですが、私は紫色。
母がやっぱり死産だったかと思ったとき、お医者さんが私の両足を持って逆さづりにし、お尻を引っぱたいたのだそうです。そして、何回か引っぱたかれたのち、私は初めて産声を上げたと聞かされました。
私の母は、何か意味があって毎年そんな話をするわけではありません。ただお正月に親戚が集まった時の「年中行事」のようなものです。しかし、年があらたまるたびにその話をされる私は、いつの間にか自然にこう思うようになりました。
【人が生きるということは、誰かに生かされているということでもある】
三浦春馬さんの出演するドラマや映画・舞台から「生きる勇気をもらった」と話すファンの方がいました。その方は、会ったこともない三浦さんに「生かされていた」のだと思います。そして、その方にとって自分がそういう存在であると、生前の三浦さんは思いもしなかったでしょう。
【人が生きるということは、誰かに生かされていることでもある】
母から刷り込まれたこの人生観を、皆さんに押しつけるつもりはありません。ただ、自分の知らないところで、自分も誰かを生かしているかもしれない、いや、そういう誰かが必ずいるということは、心に留めておいてほしいのです。
あなたは、生きています。そして、生きながら、必ず誰かを生かしています。
嘘や、きれい事ではありません。万が一あなたが命を落としたら、涙を流す人が必ずいるのです。その人は、あなたに生かされていたからこそ、涙を流すのです。さらにその人は、あなたの家族や友達とは限りません。
例えば、私。私も、間違いなくその一人です。もし、誰か生徒が命を落としたら、校長の私はとめどない涙を流すでしょう。私は、生徒であるあなたに生かされています。逆の言い方をすれば、あなたは校長である私を、生かしてくれているのです。
「生きること」をやめた時、人は「誰かに生かされること」をやめ「誰かを生かすこと」もやめてしまいます。だから「生きること」をやめてはいけないと、死にかけて生まれてきた私は思っています。