3月20日(金・祝)『春分の日』
今日は祝日『春分の日』です。 「春分」とは、太陽が、天球上の見かけの通り道にある「春分点」という地点を通過する瞬間を表す言葉で、夏至(げし)や冬至(とうじ)等と同じ二十四節気の一つでもあります。
この天文現象「春分」の起こる日が、『春分の日』です。 一般に、昼と夜の長さが同じになると言われていますが、厳密には平均して昼のほうが少しだけ長いようです。
1948年(昭和23)、『国民の祝日に関する法律(祝日法)』により、この日は【自然をたたえ、生物をいつくしむ】 ことを趣旨として祝日に制定されました。
先に述べたように、太陽の動きが関係する天文現象なので、日にちは天文計算によって決められます。 そのため、前年の2月にならないと日にちが確定しませんが、例年3月20日か21日になっています。
日本には、この『春分の日』の日を中日として前後それぞれ三日の計7日間を「春の彼岸(ひがん)」と呼び、お墓参りなどの仏事を行う習慣があります。(『秋分の日』をはさんだ7日間は『秋の彼岸』)
また、【暑さ寒さも彼岸まで】という言葉もあります。 これは、「夏の暑さは『秋分』の頃までに、冬の寒さは『春分』の頃までに和らいで、過ごしやすくなる」 という意味です。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-20 08:38 up!
3月19日(木)第71回・卒業証書授与式(校長式辞)
「本日は、ご多用中にもかかわらず、大勢のご来賓の皆様にご臨席を賜り…」で始まる式辞冒頭の挨拶を、今年は述べることが出来ません。 東日本大震災直後で、まだ日本全体が混乱の渦中にあった9年前でさえ、私の式辞はその挨拶から始まりました。
それをこの場で述べることが出来ないというのは、過去14回に及ぶ式辞の中でも、前例がありません。 そんなことにも象徴されるように、現在我が国が、前例のない事態、想定外の問題に直面している中での卒業式となりました。
保護者の皆様、お子様のご卒業、まことにおめでとうございます。 そして、やむを得ないこととはいえ、このような形での卒業式になってしまったことを、深くお詫び申し上げます。
ただ、大変寂しくはありますが、この会場は本校教職員が心を込めて設営いたしました。 また、各教室の掃除や整備についても、連日教職員総出で手分けをして行っていました。
不十分なところも多々あったかもしれませんが、本校教職員は、お子さんの入学以来本日に至るまで、毎日毎日全力でお子さんの指導・支援にあたってまいりました。 どうかそのことに対するご理解だけはお願い申し上げますと共に、3年間賜りました本校教育活動に対するご協力に厚く御礼申し上げます。
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さて、卒業生の皆さん。
「何を想定したかは、どうでもいい。何をできるかだ」
この言葉を、覚えていますか。 昨年12月の全校朝礼で、私は「アポロ13号」の話をしました。 今から50年前、月に向かって発射されたアメリカの宇宙船・アポロ13号は、地球から約32万km離れた宇宙空間で爆発事故を起こします。 そして、その事故によってアポロ13号のミッションは、月面着陸ではなく地球への帰還に変更されました。
ただし、その新たなミッションは、月面着陸とは比べものにならないぐらい困難なものでした。 爆発による機体の損傷はもちろん、酸素不足、燃料不足、水不足など想定外の事態が次々に発生し、多くの人が地球へ戻るのは不可能だと考えました。
しかし、アポロ13号は、奇跡の生還を遂げます。 私は朝礼で、その奇跡を実現した要因は大きく2つあると話しました。 1つは、乗組員たちの優れた知力・体力と不屈の精神力。そして、もう1つが地上からのサポート態勢、つまりヒューストン管制センター・管制官たちの存在です。
「何を想定したかは、どうでもいい。何をできるかだ」
先ほど改めて紹介したこの言葉は、その管制官のリーダーを務め、大胆且つ的確な指示を乗組員たちに出し続けた主任管制官 ジーン・クランツという人の言葉でしたね。
ロケットが月に近づいた段階での爆発事故と、それに伴って次々に発生する燃料不足・酸素不足などは、まさに想定外の連鎖です。 想定外の問題解決には、想定外の方法をもって臨まなければなりません。 「何を想定したかは、どうでもいい。何をできるかだ」は、それをためらうスタッフに、ジーン・クランツが発した言葉でした。
前例のない事態を打開するには、前例によらない大胆な発想も必要です。 しかし、前例踏襲主義の人は、想定外の問題に直面したとき、思考停止に陥ります。 前例踏襲とは「前々からやっていることに倣(なら)って、そのまま受け継ぐこと」といった意味です。
目の前で起きている現実が「想定外」なのですから、前々からやっている方法、つまり「想定内」の方法で解決を図ろうとしたら、思考が停止してしまうのは当たり前です。 そして、思考停止に陥った人は、ひたすら「できない理由」を挙げ連ね、「問題の先送り」を「問題の解決」にすげ替えてしまいます。
現在、日本、いえ全世界が、新型コロナウイルス感染の危機に直面しています。 冒頭で述べたように、そうした前例のない事態に、我が国の政府も3月以降全国の小・中・高等学校を臨時休校にするという前例のない措置をとりました。
皆さんも知ってのとおり、板三中では早くからそうした事態を見越して、休校になった場合のマニュアルを作成しておきました。 そして、それに基づき、毎日の電話連絡体制や家庭学習課題を記載したプリントを、皆さんに事前配付しておくことができました。
そのため、いざ休校が決まったときも大きな混乱はありませんでしたが、それでも不測の事態、つまり想定外の事態は次々に起きています。 それらに対し、板三中の先生は「昨日何を想定したか」ではなく「生徒の明日のために何ができるか」だけを考えて、この難局を乗り切ろうとしているところです。
卒業生の皆さん。
AI(人工知能)やIoT(モノのインターネット化)の活用が進むこれからの時代は、社会のありようが大きく変わるでしょう。 この先皆さんが生きていく世の中は、まさに変革の時を迎えようとしているのです。 そして、大きな変革は、しばしば前例のない事態を招き、皆さんに想定外の問題を突きつけるかもしれません。
そのとき、どうか皆さん、思い出してください。 受験期に新型ウイルスの感染が拡大し、突然1ヶ月にわたって学校が休校となり、1回の練習も予行もなく卒業式に臨むことになった想定外の事態に、自分がどう向き合ったのかを。
そして、おうちの方や先生方と力を合わせ、どのように自らの進路を切り開いていったのかを。
これからの皆さんは「過去に例がない」「うまくいく保証がない」「こういう事態は想定していない」と、いくつもある「できない理由」を正義に立ち止まってはいけません。 願わくは、たった一つの「できる可能性」を信じ、一歩踏み出す人であってください。
問題の解決策を決めるとき、ベスト(best=最善)の選択ができれば、それに越したことはありません。 しかし、想定外の問題では、ベストな選択はおろかベターな(better=より良い)選択すら予測できないときがあります。 では、そのとき、どうすればよいか?
簡単なことです。
ベストの選択もベターな選択もできないのであれば、あえてワーストな(worst=最悪)選択肢を絞り込み、それ以外の方法を選べば良いのです。 そうすれば、少なくとも「100%できない」は「1%できるかもしれない」に変わります。 そして、そういう思いで一歩踏み出せば、1%の「できる」は明日の2%、3%に、明後日の5%10%に変わっていくかもしれないのです。
新しい時代を生きる皆さんが「一歩踏み出せる人」であってくれるよう願います。 さらに、そんな皆さんの切り開く新しい時代が、希望の光にあふれていることを願い、私の式辞とします。
Yes,you can. そう、あなたには「できる」のです。
結びに、やはり前例のないことですが、私は校長としてこの場で、皆さんに謝らなければなりません。 私は、皆さんの入学と同じ3年前に板三中に着任しました。 そして、そのときから「東京で一番の学校」を目標に掲げ共に歩んできました。
そんな皆さんとは、「校長と生徒」という関係以上に「同じ夢をもつ仲間」だったと思っています。 そんな大切な仲間を、このように簡素な卒業式で送ることになってしまい、私は自分の無力を痛感しています。 だから、こうして立派な態度で式に臨んでいる皆さんの姿を見れば見るほど、私は切なくなるのです。
皆さんに謝ります。「申し訳ありませんでした」
今はただ、私にも、皆さんにも、いつかこの経験を今後の人生に生かせる日が来ることを、そして、それは自分次第で必ず実現「できる」ことを信じて、私もまた一歩踏み出そうと思います。
令和2年3月19日 板橋区立板橋第三中学校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-19 15:51 up!
3月19日(木)第71回・卒業証書授与式(卒業生見送り)
本日参列していただいた保護者の皆様。 新型コロナウイルス感染予防に伴うやむを得ない措置だったとはいえ、プログラムや参加者数などに多くの制限をした卒業式だったことを、改めてお詫び申し上げます。
ただ、本校の教職員が心を込めた卒業式だったこと、それに生徒たちも一生懸命応えてくれた温かい卒業式だったことは、伝わったのではないでしょうか。
本校の教育活動に対し、皆様からいただいた3年間のご協力に改めて感謝申し上げます。 どうも有り難うございました。 そして、お子様のご卒業、まことにおめでとうございました。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-19 15:48 up!
3月19日(木)第71回・卒業証書授与式(卒業生見送り)
学活終了後、教職員と保護者の皆様により卒業生を見送りました。
中庭から校庭に出るまでの短い距離でしたが、大きな拍手と「おめでとう」の声に包まれた温かい花道を卒業生が通りました。 その後は、いつまでも名残惜しそうに写真撮影する姿が見られました。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-19 15:27 up!
3月19日(木)第71回・卒業証書授与式(最後の学活)
引き続き、最後の学活の様子です。
【写真・上】3年3組 【写真・下】3年4組
教室の黒板には、臨時休業中、最小限の人数と時間で下級生が描いてくれたメッセージがあり、廊下には先生方が掲示してくださった3年間の写真があり、最後の学活に花を添えていました。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-19 15:17 up!
3月19日(木)第71回・卒業証書授与式(最後の学活)
卒業式終了後には、各教室で最後の学活が行われました。
【写真・上】3年1組 【写真・下】3年2組
生徒が一言ずつクラスメイトに別れを告げるクラス、合唱コンクールの練習風景を撮影した録画を見るクラス、先生が熱いメッセージを投げかけるクラスと、様々な光景が見られました。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-19 15:09 up!
3月19日(木)第71回・卒業証書授与式(証書授与)
本日、第71回卒業証書授与式が挙行されました。
新型コロナウイルス感染の拡大に伴い、一時は開催そのものも懸念されました。 しかし、プログラムを国歌斉唱・証書授与・校長式辞・校歌斉唱に厳選し、換気や咳エチケット等を徹底することで開催できました。
写真は、卒業証書授与の様子です。 臨時休業により練習できなかったにもかかわらず、大きな呼名の返事と礼儀正しい動きが徹底できていました。 3年間の積み重ねが、こういうときに発揮されますね。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-19 15:04 up!
3月18日(水)休校中のお知らせ(15)明日の卒業式
明日の卒業式について、再度の確認です。
【式の内容】
●区が原則としている「証書授与」「校長式辞」に加え本校では「国歌斉唱」「校歌斉唱」を行います。「告示」「祝辞」等は印刷物に代えます。
●教職員も、マスクを着用します。(司会、証書授与、式辞を除く)
【保護者の皆様】
●開式10:00(受付9:40〜)参列者は、各ご家庭2名以内です。
受付後は教職員の指示により、開式まで教室で待機していただきます。
●スリッパ等の上履きと、下足入れをご持参ください。
●マスクの着用にご協力ください。
【卒業生の皆さん】
●登校9:20(その後の動きは、学年だより17号を参照)。
●持ち物(上履き・上履き入れ・三中バッグ・提出課題・返却物を入れるための大きめの袋やバッグなど)
●可能な限りマスクの着用をお願いします。
【在校生の皆さん】
●皆さんは、卒業式の日もこれまでの臨時休業日と同様の扱いです。
15:00までは家庭学習で、学校周辺に集まることはできません。
●明日は、学校からの電話連絡はありません。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-18 10:28 up!
3月17日(火)休校中のお知らせ(14)卒業式
卒業式(19日)に関するお知らせの再掲と、お願いです。
【保護者の皆様】
●開式10:00(受付9:40〜)参列者は、各ご家庭2名以内です。
●スリッパ等の上履きと、下足入れをご持参ください。
●マスクの着用にご協力ください。
●受付後は教職員の指示により、開式まで教室で待機していただきます。
【卒業生の皆さん】
●登校9:20(その後の動きは、学年だより17号を参照)。
●持ち物(上履き・上履き入れ・三中バッグ・提出課題・返却物を入れるための大きめの袋やバッグなど)
●可能な限りマスクの着用をお願いします。
【在校生の皆さん】
●皆さんは、卒業式の日もこれまでの臨時休業日と同様の扱いです。
15:00までは家庭学習で、学校周辺に集まることはできません。
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本校の学校ホームページ(HP)について「板橋第三中学校ホームページ」で検索すると、トップページ画面ではなく、最初から【学校日記】のページがヒットする場合があります。
学校配付の各種プリント等は、トップページ画面に貼り付けてあります。 そのため、まず下記URLをクリックするか、【板橋第三中学校 板橋区教育ネットワーク】にアクセスしていただき、そこで表示されたトップ画面を「お気に入り」等に登録されますようお願いいたします。
http://www.ita.ed.jp/edu/ita3jh/
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-17 12:12 up! *
3月16日(月)学校HP・トップページについて(再掲)
本校の学校ホームページ(HP)について「板橋第三中学校ホームページ」で検索すると、トップページ画面ではなく、最初から【学校日記】のページがヒットする場合があります。
学校配付の各種プリント等は、トップページ画面に貼り付けてあります。 そのため、まず下記URLをクリックするか、【板橋第三中学校 板橋区教育ネットワーク】にアクセスしていただき、そこで表示されたトップ画面を「お気に入り」等に登録されますようお願いいたします。
http://www.ita.ed.jp/edu/ita3jh/
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-16 17:00 up!
3月16日(月)休校中のお知らせ(13)読み解く力
RWS向上プリント・No.2が用意されています。 前回お知らせしたように、設置場所は昇降口に入ってすぐの所です。各自取りに来られるときに登校して持ち帰ってください。 提出の必要はありません。
日常のRS(リーディング・スキル=読み解く力)タイムでは、このプリントを使って朝日新聞のコラム『天声人語』の視写や意味調べ、要約して伝える活動を通してRSやWS(ライティングスキル=正しく書く力)SS(スピーキング・スキル=わかりやすく話す力)を育成しています。
現在、その朝日新聞社では臨時休校期間の小中学生の学習支援を目的に『今解き教室 電子ドリル』という教材を無料でダウンロードできるようにしています(3月31日までの予定)。
RSタイムで活用している『天声人語』で記述力や読解力を向上させたり、記事とともに図表やグラフを読み解いたり、時事問題の理解を深めたりすることのできるドリルなので、ぜひこちらも活用してください。
下記のURLをクリックすればジャンプできます。 臨時休校期間を有効に活用して、RS・WS・SSを一段と向上させましょう。
https://imatoki.asahi.com/
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-16 13:11 up!
3月15日(日)今週の予定(3/16〜19)
※ 本校の学校ホームページ(HP)について「板橋第三中学校ホームページ」で検索すると、トップページ画面ではなく、最初から【学校日記】のページがヒットする場合があります。
学校配付の各種プリント等は、トップページ画面に貼り付けてあります。 そのため、まず下記URLをクリックするか、【板橋第三中学校 板橋区教育ネットワーク】にアクセスしていただき、そこで表示されたトップ画面を「お気に入り」等に登録されますようお願いいたします。
http://www.ita.ed.jp/edu/ita3jh/
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3月16日(月)【臨時休業日】
17日(火)【臨時休業日】
18日(水)【臨時休業日】
19日(木)【臨時休業日】( 第71回卒業証書授与式 )
20日(金・祝) 〈 春 分 の 日 〉
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※19日(木)の卒業式の日程や注意事項等の詳細は、学校ホームページ(HP)のトップページ【新着情報】より『第71回卒業式のご案内』の部分をクリックしてもらえれば確認(プリントアウト)できます。
※在校生(1・2年生)の皆さんは、卒業式に登校できません。 これまでの臨時休校日と同様に過ごし、見送り等も含めて学校には来ないでください。(卒業式の日は、電話連絡は行いません)
※19日(木)以外の平日は、下記の時間を目安に電話連絡を入れます。
【1学年】 8時30分〜11時00分
【2学年】10時30分〜13時00分
【3学年】12時30分〜15時00分
電話連絡の際には「朝の体温」「健康状態」「何か困っていることはないか」を尋ねるので、すぐ答えられるようにしておいてください。 ただし、3年生は18日が電話連絡最終日となります。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-15 10:01 up!
3月14日(土)休校中のお知らせ(12)学校HP・卒業式
本校の学校ホームページ(HP)について「板橋第三中学校ホームページ」で検索すると、トップページ画面ではなく、最初から【学校日記】のページがヒットする場合があります。
学校配付の各種プリント等は、トップページ画面に貼り付けてあります。 そのため、まず下記URLをクリックするか、【板橋第三中学校 板橋区教育ネットワーク】にアクセスしていただき、そこで表示されたトップ画面を「お気に入り」等に登録されますようお願いいたします。
http://www.ita.ed.jp/edu/ita3jh/
また、卒業式における在校生(1・2年生)の注意事項を記したプリントをアップしました。詳細は、学校ホームページ(HP)のトップページ【新着情報】より『3月13日 在校生の皆さんへ』の部分をクリックしてもらえれば確認(プリントアウト)できます。
【注意点の概要】
卒業式に在校生の皆さんは参列できません。 また、見送り等で学校周辺に集まることもできません。 これまでの臨時休校日と同様に過ごしてください。(ただし、この日は学校からの電話連絡はありません)
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-14 07:07 up! *
3月13日(金)休校中のお知らせ(11)学校HPトップページ
本校の学校ホームページ(HP)について「板橋第三中学校ホームページ」で検索すると、トップページ画面ではなく、最初から【学校日記】のページがヒットする場合があります。
学校配付の各種プリント等は、そのトップページ画面に貼り付けてあります。 そのため、まず下記URLをクリックするか、【板橋第三中学校 板橋区教育ネットワーク】にアクセスしていただき、そこで表示されたトップ画面を「お気に入り」等に登録されますようお願いいたします。
http://www.ita.ed.jp/edu/ita3jh/
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-13 17:51 up! *
3月13日(金)休校中のお知らせ(10)校庭開放
このたび板橋区教育委員会の方針により、臨時休業中の中学校・校庭開放を下記のとおり実施することになりましたのでお知らせいたします。
【開放日】3月16日(月)17日(火)18日(水)23日(月)24日(火)
【時 間】2学年(9:00〜9:55)3学年(10:00〜10:55)
1学年(11:00〜11:55)
【服 装】学校指定の体育着・ジャージ
※利用する際は、検温をしてから登校してください。 職員室の校庭側出入り口で受付をし、その際に体温を記入してください。 発熱等の風邪の症状のある人は、利用できません。
※使える道具は、昼休みに貸し出しているボールのみです。 私物の持ち込みや利用はできません。
※登下校のルールは、通常の学校生活の時と同じです。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-13 17:46 up!
3月12日(木)休校中のお知らせ(9)修了式
本日、修了式(3月25日)に関する通知文を掲載しました。
概要は、下記のとおりです。 詳細は、学校ホームページ(HP)のトップページ【新着情報】より『修了式のお知らせ』の部分をクリックしてもらえれば確認(プリントアウト)できます。
1.日 時 3月25日(水)8時25分に教室待機
2.持ち物 上履き・筆記用具・返却物を持ち帰れる板三中バッグ等
※ 修了式は、放送により教室で行います。
※ 感染症予防等の理由により登校を見合わせる場合は、あらかじめ担任までご連絡ください(欠席扱いにはなりません)。
※ 今後、予定は変更となる場合があります。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-12 16:55 up!
3月11日(水)休校中のお知らせ(8)学びの支援サイト
東京都教育委員会より「学びの支援サイト」開設の通知がありました。
文字どおり「学びの支援サイト」とは、今回の臨時休業における児童・生徒の学習をサポートするために開設されました。そこでは、まず東京ベーシック・ドリルが掲載されています。
東京ベーシック・ドリルは、小学校第1学年から中学校第1学年までの国語、算数・数学、小学校第3・4学年の社会、理科、中学校第1学年の英語の基礎的な学習内容を身に付けるためのドリルです。
中学生向けは第1学年の国語・数学・英語のみなので、2・3年生は復習用に使ってください。 また、特に1・2年生は、あえて小学校の各教科のドリルを使って自分のつまずきを解決するというのも、臨時休業期間だからこそできる有用な学習だと思います。
その他「学びの支援サイト」では、家庭学習に役立つ文部科学省や経済産業省等の外部リンク先もまとめています。 前の記事で示した学校からの学習課題追加分とあわせ、ぜひ活用してください。 下記のURLをクリックすれば、ジャンプできます。
https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/school/con...
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-11 12:34 up!
3月11日(水)休校中のお知らせ(7)学習課題の追加
本日、全学年で追加の家庭学習課題を提示しました。
詳細は、学校ホームページ(HP)のトップページ【新着情報】より『臨時休業期間の各学年の課題はこちらから』か『3月11日学年通信』の部分をクリックしてもらえれば確認(プリントアウト)できます。
その際、改めてそのお知らせが「学年通信」であることを意識してください。 臨時休業期間中も、このような形で学年通信を発行していく学校など、そうあるものではありません。
そこには追加の学習課題が提示されているだけでなく、各学年の先生方からのメッセージや、皆さんに読んでもらいたい記事の他、3学年通信では卒業式関係のお知らせや注意事項なども記載されています。
繰り返しになりますが、こうした形で学年通信を発行し続ける先生方も、また、休校以来毎日全生徒に電話をかけ「健康状態はどうか」「困っていることはないか」を確認する先生方も、私の知る限り他にいません。
そんな板三中の先生方を、生徒の皆さんはどう思いますか?
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-11 11:46 up!
3月10日(火)休校中のお知らせ(6)東京大空襲
本日は、現時点で特に新しい「休校関係のお知らせ」はありません。
さて、生徒の皆さんは、今日3月10日が何の日だか覚えているでしょうか。 というより、昨年の2学期始業式で配付し読み上げた『校長通信』(9月1号)に書かれていたことを、覚えているでしょうか。
『私たちの失敗』と題したその校長通信で私は、今から75年前の3月10日未明に起きた「東京大空襲」について取り上げ、戦争を二度と繰り返さないために、歴史を語り継ぐことの大切さを訴えたつもりです。
もう忘れてしまったという人は、下の『おりたたみ記事』に全文を再掲しておいたので、ぜひ読んでみてください。 少し長い文章ですが、休校中の時間のつかい方としては、決して無駄にはならないと思います。
校長 武田幸雄
校長講話・ここをクリック
おはようございます。
2学期の始業式を迎えました。 私が1学期の終業式で話した『3つの落とすな』は守れたでしょうか。 学校の目の前で交通事故に遭った人がいてヒヤッとしましたが、打撲ですんだことは不幸中の幸いです。 今日から始まる2学期も、命・学力・品格を大事にしつつ、「東京で一番の学校」を目指して勉強や運動、文化活動に励んでもらいたいと思います。
さて、私はこの夏休み中、板橋区立中学校の代表生徒とともに「広島平和の旅」に行ってきました。そこで、本日は校長通信を使って戦争に関する話を読み、皆さんにも戦争と平和について考えてもらいたいと思います。 そのためいつもより長くなるので、熱中症対策も兼ねて教室での始業式としました。
これから聞いてもらう校長通信の中には、皆さんと同じ名字の人なども出てきますが、そんなことに気をとられず真剣に読み、そして、考えてください。
では、配られた校長通信を見てください。私が、読み進めたいと思います。
★ ★ ★ ★ ★
1945年(昭和20)8月6日、広島に原爆投下。同年8月9日、長崎に原爆投下…。 たぶん多くの日本人が、その日を「忘れてはならない日」として心に刻んでいることでしょう。 では、皆さんの中に、同じ年の3月10日に何が起きたかを問われ、即答できる人はいるでしょうか。
広島や長崎に原爆が投下された年と同じ1945年の3月10日未明、日本の首都・東京は炎に包まれました。終戦の約5ヶ月前、日本の敗戦もいよいよ決定的になりつつあったこの日、東京は下町を中心にアメリカ軍の無差別攻撃(B29型爆撃機 約300機による、夜間低空焼夷弾攻撃)にさらされたのです。
空襲時間約2時間30分、投下された焼夷弾(対象物を焼き払うため油脂を充填した爆弾)約33万発、死者約10万人、消失家屋27万戸(区部の約1/3が焼失)。これが世に言う『東京大空襲』です(被害状況には諸説あります)。ちなみに10万人という死者の数は、短時間の惨禍としては約14万人と推定されている広島原爆による死者に次ぐ多さです。
平成2年、東京都はこの東京大空襲が行われた3月10日を『東京都平和の日』と定めました。
東京に住んでいながら、広島や長崎に原爆が投下された日は覚えていても、同じぐらい多くの犠牲者を出した東京大空襲の日を知らない…。 そういう人は、中学生に限らず大人にも大勢います。 以前から私は、そのことが不思議でなりませんでした。 いえ、「不思議」というより、「残念」という表現をしたほうが適切かもしれません。
私は、当時皆さんと同い年ぐらいだった自分の父から、東京大空襲の1か月後の山の手大空襲の様子を聞かされたことがあります。 父は、母親(私にとっての祖母)と弟たち(私にとっての叔父)が田舎に疎開していたため、父親(私にとっての祖父)と二人暮らしでした。
その日、まだ夜中だというのに、辺りはすべての家屋を燃やす炎で昼間のように明るくなったと言っていました。 そして、祖父と二人、近所で唯一燃える建物のない場所、現在のJR埼京線・池袋駅〜板橋駅間の鉄道敷地内を目指して逃げたのだそうです。 そこにたどり着くまでの間、道路両脇の家がすべて火事で燃えていたので、まるで炎のトンネルのようになった道を走り続け、一命を取り留めたと聞かされました。
私の手元に、『東京が燃えた日』(岩波ジュニア新書)という本があります。 著者の早乙女 勝元氏が、自身の体験やさまざまな資料、罹災者の証言、記録等をまとめた書物です。 中学生である皆さんにもぜひ読んでもらいたい本の一冊ですが、今日はこの中に収録されている森川寿美子(すみこ)さんという方の手記を引用させてもらいます。
森川さんは当時24歳になる主婦で、輝一(てるいち)君(4歳)と、敦子(あつこ)ちゃん涼子(りょうこ)ちゃん(双子・8ヶ月)の3人のお子さんがいました。 ご主人は出征(しゅっせい=兵隊として戦地に行くこと)していて不在だったため、森川さんは荒れ狂う戦火の中から幼な子3人の命を、女手ひとつで守らなければならなかったのです。
紙面の都合上全文を引用することはできませんが、体験者にしか綴ることのできない生々しい手記の一部を読んでみましょう。
★ ★ ★ ★ ★
〈 前 略 〉
外の風はもう言葉にならない強さで吹きまくっている。人びとのもち出したふとんは、木の葉のように飛んでゆく。まりのように転がったまま起き上がれない子どももいる。私はどうしたらいいのだろう。近所の人たちはもうだれもいない。私が子どもの用意をしている間にみんな逃げてしまったらしい。 いつも森川さんをおいて逃げるようなことはしないわよ、といってくれていた近所の人たちも、この夜ばかりは、自分のこと以外考えられなかったのでしょう。
★ ★ ★ ★ ★
森川さんは輝一君の手をつかみ、双子の赤ちゃんを二人とも背負って、火の粉まじりの烈風の中を避難場所の公園まで逃げてきました。 しかし、間もなくその公園も炎に包まれてしまい、とうとう公園の隅にあるプールにまで追いつめられてしまいます。 もはや一刻の猶予もありませんでした。 彼女は氷点(ひょうてん)に近い冷たさの中、意を決して3人の子どもと共に水中に身を投じます。 火は、すでに近隣の小学校にまで燃え移っていました。
★ ★ ★ ★ ★
ああ、火の粉は、私たちの頭の上から落ちてくる。 学校に燃えうつった火は、まるでプールの中の私たちのさけびをあざ笑うように、容赦なくふりかかってくる。 「おかあちゃん、熱いよ、おじいちゃんの所へいこうよ」「輝一、もうどうしようもないのよ、もうすぐ燃え落ちるまでがまんしてね」「うん」 力なくうなずいて泣く輝一を抱きしめて、私もあふれる涙をぬぐうこともできないのです。
背中の子たちはこの煙と熱さに、さっきまでの力もなくなったのでしょう、ときどき小さな泣き声を出すばかりです。 ああ、どうすればいいのだろう。どうしてやりようもない。 私はあつい地獄の火の中で、背筋のつめたくなるのを感じました。 かわいそうな子どもたち、こうして苦しみながら死んでいくのにおろしてやることもできない。 何というむごさであろう。
ああ、もうだめだ、こんな小さな身体で、最後の力をふりしぼって私に訴えているのであろう、小さな足が私の腰をけっている。ごめんなさい。ごめんなさい。敦子、涼子。さぞこの母がうらめしかろう。私は一瞬この火の海の中で、輝一もいっしょに親子そろって死んだほうが、どんなに楽だろうかと思った。
そのとき輝一が、「おかあちゃん、熱いよ、赤ちゃんもっと熱いだろうね、だいじょうぶ?」と声をかけてきた。 私はぎょっとした。 「輝一、だいじょうぶ、赤ちゃんおとなしくしているから、ぼくは男だもの、もうちょっとがまんしてね」「うん、赤ちゃんだいじょうぶならいいんだ。どこへもやらないでね……」 輝一は苦しげに私に訴えている。 力もつき果てそうな私に、輝一の声は神の声にも聞こえたのです。私には、輝一がいる。この子を何としても助けよう。
学校にうつった火の手は、もう目もあけられぬほど、私たちの頭の上におそってくる。 もしこのプールにとび込むのがもう少しおそかったら、私と子どもはすでに焼けただれていたことだろう。 身動きもできぬ人たちはおたがいにお父さん、お母さん、○○ちゃん、××子と肉親の名を呼びあっている。 私にはだれもいない。 林さんの姿も私の目に、はいらなくなってしまった。 すがるべき人はだれもいないのだ。
二人の子はもうすでに死んでいる。 背中で重くなった敦子、涼子の小さな身体が、私の肩にくいいるように感じられる。 そしてもう一人、私の手の中でだんだん弱まっていく輝一は、すでに意識もさだかでないのだろうか。
「輝一、しっかり。眠らないで、もう少しよ。輝一、輝一、おかあちゃんおいていかないで」 私は輝一の意識を呼びもどそうと、声をかぎりによびつづける。 この子を死なしてどうしよう。 輝一だけは助けよう。 私の姿は、さながら狂女のようであったろう。
火の手は弱まることを知らぬように、ますます大きくうなりを立てて落ちてくる。私は輝一を焼くまいと、輝一の顔へ自分の身をかぶせるようにして火を防ぐけれど、苦しく、熱く、ときに私自身ふうっと眠くなるような気持になってくる。 今眠ったら大変だ。こんなとき眠くなるのは一番あぶないことだ、とずいぶん昔だれかに聞いたことを思い出して、私はまたも、輝一、輝一と呼びかけるのです。
ああ、もうだめだ、こんな大きな学校が焼け落ちるまで、身動きもできない苦しさの中で耐えられるかしら。もうしかたない、心の底からあきらめに似た気持が湧いてきたときまた輝一が、「おかあちゃん、僕おとうちゃんに会いたいよ」とつぶやくように言った。
「輝一、がんばろう、もうすぐみんなに会えるのよ。おとうちゃんにも会えるからね。がまんして、輝一、輝一」と、落ちてくる火の粉をふせぎながら、私はもう一度、輝一をはげしくゆすったのです。 けれど輝一は、「赤ちゃんは大丈夫?」とつぶやいたきり眠りに落ちていきました。
ああ、この火はいつおさまるのだろう、おそろしいこの地獄の苦しみはいく時間つづいたのだろう。三月はじめの夜明けといえば、六時をまわっていると思う。 いつか火も弱まり明るくなってきたとき、私はぬけがらのような自分に気づきました。
そしてこの目で見た一晩の苦しみは、いく百人かの死体と、あまりにも変り果てたあたりの様子だったのです。
ぎっしりつめこまれたようにプールにはいった人たちは命長らえた人も気の狂ったまま、ただぼう然と立ったままの人も大勢いました。 またその人を助けあげる力も、すべての人はなくしていました。見るも無惨とはこのことをいうのでしょう。
私はなんの考えも浮かばない。 でもこの手の中には輝一がいる。 このおさない身体に、一夜の苦しみはあまりにも重く耐えきれなかったのでしょう、唇はもうすでに死んだように黒くなっている。
やっとプールからはい出た。 ぬれた身に吹きつける北風は輝一の身体を固くしていきます。 私は寸時(すんじ)もおくれてはならない。 でもどうしたらいいのだろう。くずれそうになる心をふり切って、背中の二人をおろしました。小さな手は母の肩につかまってなかなか離れない。家を出るとき着せた菊の花模様の着物の胸に住所、姓名の名札までつけて、いつもおとなしく眠っているときのように、二人ならんで死んでいる。私は、二人の上におおいかぶさって、泣きました。ごめんなさい、ごめんなさい。 私はただこれしかいえないのです。
輝一はますます唇を固くかみしめていく。 小さな二人は、もうすでに手のつけようがないのだ。今は、なんとしても輝一を助けなければ…。
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残されたたった一人の子、輝一君を抱きしめ、あらん限りの声でその名を呼び続ける森川さんは、通りかかった警察官からサッポロビール工場の庭にある臨時救護所に行くよう勧められます。 そこで、冷たくなった二人の赤ちゃんに、焼けこげ、水につかった「ねんねこ」を掛けてやり、後ろ髪を引かれる思いで公園を出ました。
救護所に向かう路上は、まさに死体の山。 男女の区別もつかないほど真っ黒になった死体が、人形を焼きころがしたように散乱しています。 そんな町中を歩き続け、やっとの思いで救護所にたどり着きますが、そこに肝心の医者はいませんでした。 そのためやむを得ず、焼け残った知り合いの斉藤さん宅に身を寄せ、改めて医者を捜すことにしたのです。
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せまい家の中には、大勢の人がぬけがらのような顔で逃げてきている。ぬれた服を脱がせ、かわいたのを一枚貸してもらいました。斉藤さんの厚意でふとんもいただき、つめたく固くなっている輝一をくるみ、私はしっかり抱きしめ、摩擦をはじめました。
もう疲れも何もありません。なんとか助けよう、どうしてもと、無我夢中でした。だれか覚えていないけれど、熱いお茶を手渡してくれました。私は口うつしに、輝一の口に少しいれてやりました。初めちょっと苦しそうでした。 でも、輝一は「ううっ」と飲みくだしました。
ああ、輝一はだいじょうぶ死にはしない。 輝一がんばろう。 私はうわごとのように呼びかけながら、摩擦をしたのです。せめて私の身体の温かみを少しでもあの子にうつせるものならと、私は自分の肌に直接輝一をくっつけて、手を足をこすりました。 でも、輝一は最後の力をふりしぼったのでしょう。薄く目をあけ、小さな声で「おかあちゃん」とただそれだけいってもう息をしなくなりました。 「輝一、輝ちゃん、もう一度目をあけて、死なないで、だめよ、だめよ」 私は輝一におおいかぶさったまま、何もかも終わってしまった、もうなにもないと思ったまま、何かに引きずりこまれるようにわからなくなりました。 〈 後 略 〉
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『東京が燃えた日』の著者である早乙女勝元氏によると、森川寿美子さんは、以上の手記のもとになる記録ノートを、東京大空襲の翌年の3月10日、子供たちの一周忌に墓参りから帰宅して書いたのだそうです。 どうしても「あの夜のこと」を書き残しておきたくて、亡き子らに話しかけるような気持ちで書いたのだといいます。 そして、手記の原稿には、次のような手紙が添えられていたそうです。
【あと何年かたって、日本中が戦争を知らない世代ばかりになった時、あの子たちの死んだことが、だれの心にも残らなかったとしたら、母として子どもにすまない気がして書きました。】
最初に『東京が燃えた日』を読んだとき、私は取り返しのつかない「過去」に対する悲しみと怒りを覚えました。しかし、森川さんの原稿に添えられていたという手紙を読み、森川さんの執筆動機、つまり、なぜ森川さんが「あの夜のこと」を書き残しておこうと思ったのかを知ったうえで読み返すと、悲しみや怒りだけではない、また別の思いがわき上がってきます。
それは、取り返しのつかない「過去」を、あらゆる可能性を秘めた「未来」に語り継がなければならないという使命感です。
生徒の皆さん。
私と一緒に考えてください。戦争は、なぜ起きるのでしょう?
…いえ、その言い方は、無責任だったと思います。 戦争は、勝手に「起きる」ものではなく、人間が「起こす」ものなのですから。 では、主語を入れ替えたうえで、改めて問います。
人間は、なぜ戦争を起こすのでしょう?
自分たちの領土を拡大するため? より多くの資源を確保するため? 異なる主義や思想・民族・宗教が許せないから? 巨額の富をもたらす軍需産業という名のビジネスが、存在しているから? あるいはまた、人間という生き物が、本質的に同種間の争いを好む習性をもっているから…?
その答えは人によって、あるいは、戦争によって異なると思います。ただし、誰が、どんな理由を付けようとも、すべての戦争に共通した紛れもない事実があります。 それは、戦争によってたくさんの血と涙が流れ、多くの命が理不尽に奪われたということです。 そして、その都度、誰もが嘆き、あるいは憤り、あるいは眉をしかめ唇をかんできたということです。
それなのに、歴史という大きな時間の流れの中では、次の瞬間また同じ失敗を繰り返してしまう…。 しかも、科学技術の進歩を背景に戦略や兵器の近代化が進むにつれ、失敗もまた、繰り返されるたびにますます多くの犠牲を出すようになっていきました。 20世紀に行われた戦争が「大量殺戮(さつりく)の時代」と呼ばれるゆえんです。
もう、人間はいい加減に気づくべきではないでしょうか。どんな理由をつけても、戦争は戦争なのです。そして、戦争とは、多くの命を奪い、多くの傷を人々の心と体に残すものなのです。そんな当たり前で簡単なことを後世に語り継ごうとしないから、人間は同じ失敗を繰り返してしまうのです。
私も、皆さんも、実体験としての戦争を知りません。 しかし、歴史を学び、後世に語り継ぎ、先人のはらった莫大な犠牲を無駄にしないよう心掛けるのは、あとに残った者の使命だと思います。 その使命を私たちが果たさなかったために、いつか私たちの子孫が同じ失敗を繰り返したとしたら、それはもはや彼らの失敗ではありません。
「私たちの失敗」なのです。
死んだ彼らが残したものは
生きてるわたし
生きてるあなた
ほかには誰も残っていない
ほかには誰も残っていない
谷川俊太郎 『死んだ男の残したものは』より
この校長通信を読んだ感想、おうちの方や友達と話し合ったこと、考えたことなどがあれば、教えてください。私も、皆さんと一緒に考え続けていきたいと思います。
【学校日記】 2020-03-10 11:38 up!
3月9日(月)休校関係のお知らせ(5)教室整備
本日は、現時点で特に新しい「休校関係のお知らせ」はありません。
写真は、つい先ほどの2階の教室や廊下(3年生フロア)の様子です。 大掃除や教室整備もできないうちに臨時休校となり、そのまま年度末を迎えようとしていることは、皆さんも分かっているでしょう。
そうした中にあって、先生方は用務員の皆さんにもご協力をいただきながら、生徒に代わって教室整備を行っています。 先週来、机や椅子を廊下に出されてから、掃除やワックス掛けをされています。
生徒の皆さんは、規則正しい生活リズムで休校期間を過ごし、家庭学習課題や自分で見つけた課題にしっかり取り組むことで、そんな先生方に応えてもらえたら嬉しく思います。
校長 武田幸雄
【学校日記】 2020-03-09 17:02 up!