フツウって?

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 こんにちは、7期生の池戸です。新学期がはじまり毎日学校で授業を受けられることに喜びを感じつつ、まだ早起きに苦戦する日々を過ごしています。やっと玉置ゼミ生とも直接会って話せる機会が増え嬉しいです。

 先日、ずっと読んでみたいと思っていた棚園正一さんの『学校へ行けない僕と9人の先生』という本が玉置研究室書棚に返却されていてやっと手に取ることができました。今日はこの本を読んで私が感じたことを記事にしようと思います。

 私は最初、自分が教師だったらという視点で読みました。

 教師にとっての『フツウ』が生徒の『フツウ』とは違う。この本に出てくる9人の先生が全員正しいわけではない、でも間違っているわけでもない。いや、教師に正しいも間違いもあるのだろうか?主人公のボクを前にした時、自分だったらどう向き合い声をかけるのだろうか。

 色々な感情が込み上げてきて、自分の気持ちを整理できませんでした。私は教師になっても大丈夫なのかと不安すらよぎってしまいました。

 次に私はこの本をボクの視点で読みました。

『学校へいくことがフツウなんだ』『ぼくはフツウじゃない』ボクの中でいつのまにか造られる『フツウ』がボク自身を苦しめてしまう。きっとボクはそれを気づかせてくれる先生、大人に出会いたかったのではないでしょうか。先生の優しさが欲しいわけではない。『先生に優しくされるほどボクはトクベツになってしまう』この言葉にすごく重みを感じました。

 子供たちの中で知らず知らずのうちに形成されてしまう『フツウ』が子供たちの夢や将来を奪っていたら、、、。世の中に存在する『フツウ』とは何なのか。この答えは教師になっても向き合い考え続けなければいけないことだと思います。
 
 例えば5人の生徒が同じ問題を抱えていたとして、同じ状況でも、その5人に同じ『フツウ』を与えても何も変わらない。これが教育の現場だと思います。目の前の生徒が何を必要としているのか、一人一人と向き合うことがなかなか難しい中で、どうやってその5人と向き合うかそれこそが教師の力量が問われる部分だと思います。誰かと比べたり、フツウにとらわれる必要なんてないと思います。私は生徒たちが時に自分を認めてあげられるようにサポートしていきたいです。時に先生は教えるためのティーチャーではなく、サポートに回るエデュケーターとしての先生でいなさいとある授業で習いましたが、その通りだと思います。
 
 この本と出会い、『フツウとは?』という当たり前すぎて普段向き合うことのなかった問いに向き合い、考えることができました。そしてまた一つ私の視野が広がりました。5月にはこの本を書かれ、主人公でもある棚園さんと玉置ゼミ7期生での交流会もあります。第二作となる『学校へ行けなかった僕と9人の友達』について語り合うことができる貴重な機会でとてもワクワクしています。このような機会を設けてくださった棚園正一さん、玉置先生ありがとうございます!!

 また違った視点の第二作の感想は交流会で直接棚園さんに共有させていただこうと思います!ぜひ皆さんも一度手に取り、考えてみてください。『フツウって?』(7期生池戸)

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