置かれた場所(下野)

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 こんにちは、7期生の下野です。卒論がひと段落し、2年間のゼミでの学びを今一度ノートに記しながら、学びを確かなものにする冬を迎えています。本記事では、ある言葉について考えます。週に1本記事更新は、週に2本になりそう(笑) 書きたいことが山積みです。

 『置かれた場所で咲きなさい』

 とてもとても綺麗な言葉ですよね。置かれた場所(環境)があなたのいる場所なのだから、どんな時もあなたらしく咲くことを諦めない。雨の日や風の日、どうしても咲けないと思ったのなら、下に下に根を張りなさい。

 私は、キリスト教系の中高一貫校に通っていたので、ちょうどこの時期に開かれるクリスマス礼拝でこの言葉を知りました。『置かれた場所で咲きなさい』を著された渡辺和子氏はキリスト教カトリック修道女の方です。

 中学生の時、なるほどなあと思って礼拝でのお話を聞いていました。でも、ふと疑問に思ってしまいました。私の悪い癖です。

 サボテンは街中では咲けないし、たんぽぽは砂漠では咲けない。もし、たんぽぽが砂漠に置かれてても咲きなさいって言われたら辛いんじゃないかな。

 上記の感想を礼拝後の感想シートに書いた私は、職員室でこっぴどく叱られました(笑) それはもうとてもとてもこってりと絞られたのですが、やっぱりたんぽぽは砂漠では咲けないじゃないかと随分長い時間粘ったことを覚えています。結局、「置かれた場所を見極める力が必要だと思います」という言葉で、一旦生徒指導室から私は解放されました。

 今、不登校支援のボランティアを行っている時、昔の私を思い出します。この子たちは、たんぽぽだったんじゃないかって。彼ら彼女らというたんぽぽにとって、学校という砂漠に置かれて、でも咲きなさいと言われ、苦しくなってしまう。それはそうですよね、だってたんぽぽは砂漠では咲けませんから。

 私の行う不登校支援のボランティアは、子どもが中学を卒業する時に終わってしまいます。中学3年生になると進路先を決めていく姿が見られます。通信制の学校だったり、月に何回スクーリングするという学校だったり様々です。中学校には行けなかったけれど、この高校だったら行けると思う!と目を輝かせる子どもを何人もこの2年間で見てきました。その時、ああこの子たちは自分で「置かれた場所を見極める力」を身につけたんだなと思います。

 自分がたんぽぽかサボテンか、はたまた、向日葵か桜かなんて子どもには分かりません。まだこの世に生まれて、数年しか経っていないのですから、分かっていたのなら超人です。だから、大人がいると私は思います。卒業研究にも書きましたが、自分を見つめる時間こそが自分を好きになる第一歩なのです。

 自分はどんな花で、自分が置かれる場所は自分で決められる。そんな時代になったと思います。咲くことを諦めないでいられる場所が沢山できたのが現代です。

 自分を見つめる時間を取れる教師になりたいです。もちろん、私自身も。花は変化していきます。自分の努力次第で、突然変異だってします。そういった意味で、『置かれた場所で咲きなさい』を捉え直すと中学生の頃の私が思う存分報われたように思うのです。

 優しい気持ちで自分を大切に。自分の花を大切に生きていく教師であり、自分の花を大切にできる子どもたちが生きられる社会であって欲しいと願っています。

(下野)
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