書くことによって学ぶとは…(吉田)

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ある日のことです。朝起きてご飯を食べていると玉置先生から1通のメールをいただきました。

「書くことによって学ぶということをしていますか?」

このゼミに入り、半年近くなりますが私はもう一度この言葉の「真意」に向き合おうと思います。

僕なりに仮説を立ててみました。
「書く=学ぶ」なのでしょうか。
書くことで記憶に残りやすい・頭で考えるだけではなく、手を動かせというのはよく耳にしますよね。確かに私自身「頭が整理できた経験」や「記録することの大切さ」を感じてきました。ただ「書く=学ぶ」という表現を先生はされていません。

なぜでしょう?

それは「=」と記号の恐ろしさにあると私は考えます。
書けば何とかなる、書いてまとめさえすれば自分のものになった。なぜなら書くことは学ぶことと同じだから。
これは目指しているビジョンとは違うと言い切れます。理由はただ1つ、ゼミのみんなが先生の思いを肌で感じているからです。

そして「=」ではなく、「によって」という言葉がすべてを物語ってます。
「によって」という言葉は文法的に「手段・方法」を表す際に用いられる表現です。つまり誰かによって使われるということです。ここが大きなポイントだと私は考えます。「書く」という行為をその人がどう位置付け、その人が物事に対してどのような姿勢で向かうということ、いわゆる「心」がいるではないでしょうか。
「書く」という行為は一つの手段であり、そこに「心」があるから学ぶことができるではないでしょうか。多くの方の講演会や自分の身の回りにある不思議、体験には多くの情報があり、それをすべて還元するのはなかなか難しい中で「1つでも自分の身にしたい」「前の自分よりも大きくなりたい」と思うからこそ成り立つ、学びなのかもしれません。

1つの手段としての「書く」ととらえた時、一つの疑問が生じました。なぜこんなにも先生はこだわるのでしょうか?
それは先生の姿が教えてくださいました。先生の人生をすべて知っているわけではありませんが、先生は書くことによって学ぶことの大先輩であり、物事に対して気づき、その問いを追い求め、情報を整理して、体現化されているのだと見て感じます。「将来、先生は書くことが多い」とも先生は話されますが、それは後付けの理由で、僕らの夢、成長のためになってほしいという思いがあるのではないでしょうか。

この意見は僕の個人的な見解であり、誤解や異なる見方があるかもしれません。是非、僕にその意見を教えてください。その意見が僕を大きくしてくださると思います。

また、素直に記事を書いていこうと思います(吉田)

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