「頑張りなさい。」(岩田)

 すっかり春になりました。わたしは幸せなことに花粉症ではありませんので、春という季節がとても好きです。また、自分の生まれた季節ということもあり春にとても愛着をもっています。それはみなさんも同じではないでしょうか。

 さて、私事ですが大学入学と同時に始めた、塾講師も4年目に突入しました。春は新学年になったフレッシュな生徒に出会えるので、塾に行くのがとても楽しみです。先日も中学2年生の男の子の理科と社会を担当してきました。その日まだ、学校の授業が進んでなかったので、一年生の復習プリントを用意し解かせていきました。開始5分、全く問題を解こうとしません。「どうしたの?わからない問題があったら先生に教えてね。」わたしは言いました。が、解こうとしません。わたしも塾講師として担当している以上解かせないわけにはいきません。90分という限られた時間の中で多少の成果は出しておかなくてはという気持ちがあります。焦りの気持ちもあり、「頑張りなさい。」わたしは何気なくその子に投げかけました。「頑張ってるよ。」ボソッとその子が言いました。「先生、僕は僕なりに頑張ってる。」その子の訴えでした。

 わたしは幼い頃から「頑張ったか頑張っていないのかは他人が決めること」と父に言われ育ちました。今でもそれはわたしの人生を生き抜く上での大切な言葉の一つであり、そう思われるようになりたいという気持ちがあります。自分の努力が認められたときそれは初めて「頑張り」になる。自分の振れ幅を自分で決めて欲しくないという父の思いが込められているような気がします。そんなわたしにとって他人から言われる「頑張りなさい。」はやる気が出る言葉でした。「頑張れ。」と言われたら、「もっとやれる!」という気持ちになりました。そういった思いが強すぎて、その子の立場にたってやる気を引き出してあげられることができなかったととても後悔しています。生徒の実態把握が甘かったと反省するばかりです。

 今回の出来事は些細ではありますが、わたしにとって非常に考えさせられる瞬間でした。いかに子ども理解が大切なのか、また難しいのかを肌で感じる出来事となりました。しかし、わたしの根底には子どもたち自身が自分の可能性の広がりに自分で終止符を打つ生き方をしてほしくないという願いもあります。「頑張りなさい。」に代わる違った表現を見つけていくと同時に、「頑張りなさい。」をエネルギーに変えられるそんな子どもたちを育てていくのがわたしの夢です。(岩田)
画像1
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30