「誰かと一緒」の起源(岩田)

 梅雨入りしたというのに梅雨を感じさせない今日の気候です。じめじめしていないのは良いのですが、あまりにも天気が良すぎるのも後々水不足になってしまいそうで、不安ではあります。さて、本日は、今朝の朝刊の興味深い記事について書いていこうと思います。

 記事の内容は「食事は一人よりも誰かと一緒の方がおいしく感じるものだが、鏡に映った自分を眺めながらでもおいしく感じ、食べる量も増える」という研究結果がでたというものでした。この成果は少子高齢化により、一人で食事をするお年寄りの食事の質を高めるヒントになると期待されています。また、そこには、「人間は本能的に誰かと一緒の食事を好むのでは。」とも書かれていました。


 この記事を読んで、「確かに」と思いました。わたしは今も実家暮らしで、家族と食事をする機会が多いです。幸せなことにいつも誰かと一緒に食事をすることは当たり前の感覚になっています。しかし、たまにやってくる一人での食事の時は、適当に済ませてしまうことが良くあります。当たり前が当たり前でなくなったとき、その大切さに気付くと言いますが本当にその通りです。

 しかし、研究結果よりたとえ鏡に映っているのが自分自身であったとしても、視覚的に人がいるという感覚を与えながらの食事は、一人でも「誰かと一緒」を脳に感じさせてくれる重大な役割をしているなと思いました。また、この研究結果は、お年寄りだけでなく、なんらかの事情で普段の食事は、一人が多い子どもたちにも共通していえるのではと感じました。


 ここで1つ疑問が生じました。「なぜ、人間は本能的に誰かと一緒の食事を好むのでしょうか。」不思議に思いませんか?そりゃ人間だから当たり前じゃんと思った方、理由にはなりませんね。笑
 そこには「狩猟採集時代が長かった人類にとって、食事は仲間と分け合うもので、孤食は最近までなかった。」と書かれていました。

 ここがわたしがこの記事を読んで一番興味深いなと感じた部分です。孤食を本能的に嫌う人類の特性は、実ははるか昔の狩猟採集時代が生んだものであったのです。日本の場合狩猟採集時代を営んでいたのは、縄文時代までであると言われています。紀元前の人類が築いてきた長い長い歴史があるからこそ、今のわたしたちがあるんだなと、母と朝食をとりながら一人で考えていました。歴史を学ぶ意義に少し希望の光が見えたそんな朝でした。(岩田)


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