牛乳と「思いやり」 (矢崎)
こんにちは。
5期生の矢崎です。 私の最近の悩みを聞いてください。 「思いやり」ってなんだと思いますか。 最近、この言葉に悩んでいます。 人と関わる上でこの「思いやり」はとても重要だと思います。 でも、ふとした時、自分が「あの時、私はあの人のためにこれをやってやったのに」と感じてしまうのです。 それで、その考えから離れたときに自分の醜さに苛立ちます。 だって、「あの時」私がした「思いやり」は「思いやり」ではなくなるなからです。 じゃあ、「思いやり」ってなんなんだと。 簡単に「思いやり」とは言うけれど、これってとっても難しいことじゃないかと。 そんなことを考えていた時、ふと、「あれ、私疲れてる?」と思いました。 よく考えたら、最近、「誰かに気を遣う」ことが多いなと。 別に「気を遣う」ことが悪いことと言いたいわけではありません。 「気を遣う」ことは「思いやり」の一種だとも思っています。 でも、明らかに私は自分の中の「思いやり」に疲れていました。 そこから、私は「思いやり」の量には限りがあるんじゃないかと思いました。 イメージとしてはヨハネス・フェルメールの「牛乳を注ぐ女」がぴったりです。 この絵画の牛乳が「思いやり」で、その「思いやり」を誰かの器に注いでいるような感じです。 この絵画の女性が注ぐ牛乳も永遠に注げません。限りがあります。 だから、この女性は牛乳が足りなくなったら、牛のところに行って牛乳をもらってくるでしょう。 牛に牛乳をもらえば、また新たな器に牛乳を注ぐことができます。 だから、「思いやり」も限りがあるし、足りなくなったら誰かに「思いやり」をもらわなくてはいけないのではないでしょうか。 逆に言えば、「思いやり」は誰かからもらったものを誰かに注いでいるのじゃないかと思います。 その素敵な連鎖の中に自分はいるんじゃないかと。 だから、今は自分の注げる「思いやり」が足りなくなっている時期なんだなと思います。 足りないのに無理やり注ごうとしているから、「やってやったのに」と感じてしまうのだなと。 だから、注ぐのは休憩して、家族や友達と話して、「思いやり」をもらいに行こうと思います。 また「思いやり」がたまったら、だれかに注ぎに行きます。 (矢崎) |
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