最新更新日:2024/07/02
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日本の細菌学の父 〜北里柴三郎

太田中学校の皆さんへ(第6回)

5月になりました。いつもの年なら、明日から楽しいゴールデンウイークとなるのですが、今年は自宅で静かに過ごす5連休となります。感染予防をしっかり行いながら、有意義な時間の使い方をしてください。

さて、本日は、2024年に新紙幣の顔となる、近代日本医学(日本の細菌学)の父と呼ばれる「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)のことを書きます。日本ではおよそ20年ごとに紙幣を新しくしているそうです(前回の変更は2004年)が、昨年の4月に、1000円札の図柄に北里柴三郎が選ばれたというニュースがありました。

「破傷風」(はしょうふう)の予防についてたいへんな功績を残した人物であると、中学生の頃に社会科で学習した記憶はありました。しかし、そこで留まっていましたので、改めて彼のことを知りたいと考え、外出を控えている中で本を読みました。

読んだのはだれにも分かりやすい学習漫画「コミック版 世界の伝記17 北里柴三郎」(ポプラ社)です。学習漫画でも発見することはたくさんあり、勉強になります。

北里柴三郎は、1853年(嘉永6年)に熊本県で生まれました。ちなみにこの年は、ペリー率いるアメリカの黒船が日本に来航した年でした。小さいときから武士になりたいと考えていた北里は、家族の勧めや熊本の医学校でのオランダ人教師との出会い等を経て、医学の道に進むことを決めました。彼は東京医学校(現在の東京大学医学部)で8年間医学を学んだ後、国の内務省衛生局に勤務し、伝染病の研究などを経験します。そして、ここでの頑張りが認められ、選ばれて国のお金でドイツへ留学することになりました。1885年、32歳のときのことでした。

北里は、ドイツでは、近代細菌学の開祖(それを始めた人)である、ローベルト・コッホに学び、熱心に実験や研究に取り組みました。そして、これまでだれもできなかった破傷風菌の純粋培養を成功させたり、菌の出す毒素を中和(働かなく)する抗体(物質)を発見して「血清療法」(けっせいりょうほう)を開発したりして、世界的な研究者になりました。

1892年(明治25年)に32歳で帰国してからは、福澤諭吉の助けを借りて、日本初の伝染病研究所(後に国立となり、ここに志賀潔や秦佐八郎、野口英世らも集まった)や結核専門病院を作ったりしました。また、1894年には、香港でペスト菌を発見し、これまた世界にその名を知らしめました。その後も78歳で亡くなるまで、北里研究所を作ったり、慶應義塾大学医学科を作ったりして、日本の医学の発展に最後まで力を尽くしました。

北里柴三郎も、先日紹介した緒方洪庵と同じく、生涯を医学の発展に捧げたエッセンシャル・ワーカーでした。読んだ本の中で紹介されていた北里の次の言葉が印象に残っています。
★「生涯をかけて立ち向かえば、成し遂げられないことはない」
★「医学とは国民が健康を保ち、安心して生活ができるようにすることだ」

2024年から新しくなる1000円札の顔、北里柴三郎の素晴らしさと彼の残した偉大な功績を再認識する時間がもてたことに感謝します。

私たち太田中の教師も、北里柴三郎に負けないくらいの情熱をもって、教育に携わっていきたいと思っています。

太田中学校長  今井 東

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