最新更新日:2024/07/04
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葛飾北斎 〜これまでの古いきまりや常識にとらわれない男

太田中学校の皆さんへ(第12回)

★暦(こよみ)の上では「夏」(初夏)となりました。最近では急に暑くなり30度に迫る(超える)日も出てきました。そこで心配なのが「熱中症」です。特に今年は、新型コロナウイルスの感染予防で、ずっとマスクをしなければなりませんから、顔の辺りもいっそう暑く感じます。

★先日、テレビを見ていましたら、晴れた日の屋外で、マスクを着けない状態と着けた状態で、顔(特に口の周り)の温度がどのように違うか比べる実験をしているニュースがありました。結果は、マスクを着けた状態の口の周りの温度は40度にもなるというものでした。ですから、暑さと息苦しさで、ついマスクを外したくなる理由が分かりました。

★また、マスクをしていると、のどが渇いたという感覚が鈍(にぶ)くなり、水分を摂ることを忘れがちになるので注意が必要という医師の話もありました。室内にいても、こまめに水分を補給することが大切ということでした。それから、室内で過ごすことが多い今の私たちの体は、まだ外の暑さに慣れていないので熱中症になりやすいとも話していました。外の安全な場所で、少しずつ体を動かし、暑さに体を慣らすことも大切とのことです。これからは、新型コロナウイルスだけでなく、熱中症対策もあわせて行っていかなければなりません。

★今日紹介するのは、「熱中」といっても熱中症ではなく、絵に対する熱い情熱と探究心を生涯持ち続け、絵を描くことに熱中し続けた、「葛飾北斎」(かつしかほくさい)の話です。北斎は江戸時代の後期の町人文化(化政文化)が盛んだった頃に活躍した浮世絵師(うきよえし)です。

★1760年に今の東京・墨田区に生まれた北斎(幼名は時太郎)は、鏡職人の家の養子となりますが、幼少期から絵を描くことが大好きで、目にする様々なものは何でも描いたそうです。それから時太郎は、貸本屋や浮世絵に欠かせない木版印刷の版木を彫る仕事などを経験した後、18歳の時に当時有名だった浮世絵師の「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)という人の弟子となります。

★北斎の絵に対する熱意と才能を見抜いた師匠の勝川春章は、弟子となって2年目の北斎(この頃の名前は鉄蔵)に、他の先輩の弟子たちより早く、一人前と認めたしるしの画号(がごう=画家などが作品を発表する際に、本名以外につかう名前)である「勝川春朗(しゅんろう)」という名前を与えました(今で言えばペンネームですね)。1779年、北斎が19歳の時のことでした。

★1792年に師匠が亡くなった後の春朗(北斎)は、勝川派(師匠のグループ)を離れ狩野派の技法や外国の技法も学ぶなど、これまでの絵の古いきまりや常識にとらわれず、日本一の絵師をめざし自分の道を突き進みます。1806年、46歳の時には「葛飾北斎」の画号を使うようになり、その後、山梨、名古屋、和歌山、三重、東北などを旅しながら、70歳を過ぎて、有名な「冨嶽三十六景」(ふがくさんじゅうろっけい)など、数多くの画集を出版しました。84歳からは数年を長野県で過ごし、お祭りの屋台やお寺の天井などに大きな鳳凰(ほうおう)や龍の絵も描きました。

★北斎は1849年に89歳で亡くなるまでに、3万点もの作品を残したそうです。引っ越しをした回数は93回、画号の変更は30回以上にもなるそうです。死の直前、北斎は、「天があと10年、いや5年、私を生かしてくれるなら、本当の絵師になれたのに」と言ったそうです。本当に最後まで絵の道を追い求め、極めようとした人でした。北斎の生み出した「新しい表現方法」は、ヨーロッパの芸術家、ゴッホやモネたちにも大きな影響を与えました。

★私たち太田中の教師も、新型コロナウイルスの流行という経験したことのない状況を前にして、北斎のように、「これまでの常識にとらわれない新しい発想」で、学校再開の準備をしています。

太田中学校長  今井 東

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