最新更新日:2024/07/02
本日:count up145
昨日:399
総数:357959

伊能忠敬 〜夢の実現に向け、ひたすら歩き続けた努力の人

太田中学校の皆さんへ(第17回)

★休校期間中ですが、皆さんは様々な形で体力作りもしていることと思います。あと一週間で学校が再開することとなりましたが、久しぶりの登校ですので、最初は皆さんもかなり体が疲れるのではないかと思っています。また、新型コロナウイルスの感染に注意しながらの通学にもなるわけですから、精神的な疲れも重なるでしょう。どうか気を付けながら登校してください。家の中にいる時間が多くなり体力が落ちている人は、少し体も動かして再登校に備えてください。

★今年のゴールデンウィークは、私もステイホームで家にいる時間がほとんどでしたが、体力を維持(いじ)するために、何度か散歩をしました。散歩といっても少し長めの散歩で、マスクを着け、一番多い時では1時間半から2時間くらい歩きました。新緑の山を遠くに見たり、道ばたに咲くいろいろな草花を眺めたりしながらの散歩は、気持ちのよいものでした。そのくらい歩くと万歩計の歩数は1万5000歩、距離にすると10キロくらいになります。

★ところが、今から約200年前の江戸時代に、自分の足で地球一周にあたる4万キロを歩いた人物がいます。その人の名は、「伊能忠敬」(いのうただたか)です。日本で初めての本格的な「日本地図」を作った人です。約15年かけて日本中を歩き、現在、人工衛星で撮影した日本列島の写真と比べてみても、ほとんど変わらないほど正確な地図「大日本沿海輿地(よち)全図」(またの名を「伊能図」)を完成させました。

★今の千葉県に生まれ、子どもの頃から算法(今の数学)が得意だった忠敬は、18歳の時に結婚し、酒や醤油などを造って売る大きな商家(商売をする家)の伊能家に婿(むこ)入りします。その後、伊能家の商売をさらに大きくし、40歳の時には村全体をまとめる役職にもつきます。こうして、村中の人からたいへんな信頼を得るようになっていった忠敬でしたが、その当時、最先端の学問であった「天文学」に興味をもっていましたので、たくさんの本を読んだり、望遠鏡や方位磁石を使って天体観測をしたりすることに熱中しました。

★47歳で自分の長男に伊能家の経営を任せた忠敬は、隠居(いんきょ・引退)して、天文学を勉強して極(きわ)めるために、江戸に出て浅草天司台(てんしだい=現在の国立天文台につながる当時の役所)の責任者の一人である、高橋至時(よしとき)の弟子となります。至時が32歳で、忠敬は51歳の時のことでした。その後の忠敬は、本当に熱心に天文学の理論、天体観測の技術などを身に付けながら、昼も夜もひたすら星を観測しました。

★そして、弟子入りしてから数年後、「地球の大きさを知りたい」と考えた忠敬は、地球の大きさを知るための基本となる、「緯度1度の長さ」を調べるために、自分の足で何度も自宅と浅草天司台の間を往復し、自分の歩幅で距離を測り(忠敬はどんな場所でも一歩70センチの歩幅で正確に歩くことができたそうです)、計算をもとに緯度1度の長さを調べることに成功します。しかし、より正確に緯度1度の距離を測るためには、もっとずっと長い距離を測らなければならないと言われた忠敬は、この言葉がきっかけとなり、幕府の許しを得て当時の蝦夷地(えぞち=北海道)の測量に出かけることになります。これが忠敬の日本地図づくりの、まさに「はじめの一歩」になりました。この時の忠敬の年齢は、なんと56歳でした。

★いくつかの測量方法を組み合わせながら、半年かけて蝦夷地の測量を無事に終え江戸に戻った忠敬は、今度は「日本全国を測量してみたい」という大きな夢(目標)をもつようになります。そして、その後、幕府から毎年測量を許され、最後に72歳で江戸を測量し終えるまで、10回にわたり全国の測量に出かけています。東北(3回目)や北陸(4回目)の測量を終えて江戸に帰る時には、群馬県の高崎を通って江戸に帰ったという記録も残っています。忠敬は、9回目の伊豆諸島の測量は自分の弟子に任せましたが、1回目から10回目の測量まですべてを自分の足(歩幅70センチ)で正確に歩き続けました。最後の測量から2年後、忠敬は74歳で亡くなりましたが、蝦夷地の測量から数えて歩いた距離の合計が4万キロ、およそ地球一周分となりました。

★また、忠敬自身は、「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)の完成を自分の目で見られぬまま亡くなりましたが、忠敬が亡くなった3年後、忠敬の師匠(先生)であった高橋至時の息子の景保(かげやす)たちが「伊能図」を完成させました。幕府に納められた「伊能図」は畳一畳分くらいの紙にして240枚にもなるほど大きなものになったのだそうです。これは、当時のヨーロッパの国にもない正確さで作られた地図だったため、西洋の人々も本当に驚いたようです。

★56歳という年齢で日本全国を測量し始めた忠敬を最後まで歩き続けさせたもの、それは、忠敬の「探究心」に他なりません。当然ながら、電車や自動車もない時代に、今の私たちには想像もできないほどの苦労を乗り越えて、一つの大きな仕事を成し遂げた忠敬ですが、その始まりは、彼の一歩(70センチ)から始まったのです。一歩一歩の地道な積み重ね、努力の積み重ねが、結果的に大きな夢(目標)の実現につながるのだということを身をもって教えてくれた伊能忠敬の生涯でした。
(参考:集英社 学習漫画 世界の伝記NEXT「伊能忠敬」)

★私たち太田中の教師も、6月の学校再開後から、また一歩一歩、皆さんと共に着実に前に進み、皆さんが充実した学校生活を取りもどせるようにしていきたいと考えています。

太田中学校長  今井 東

画像1 画像1

『南総里見八犬伝』が小学生新聞に連載してあった!

画像1 画像1
 みなさん、おはようございます。社会科担当の赤石です。いよいよ学校が始まりますね!あと1週間、お互い準備を整えましょう!
 さて、休校期間中、『南総里見八犬伝』のおもしろさに気づいた私ですが、最近、我が家で購読している小学生新聞に5月から八犬伝が連載されていたことに気づきました。何という偶然でしょう!今回、太田中の図書館の漫画、本屋で買った小説、そして小学生新聞と3種類に描かれた八犬伝を楽しみました。原作は同じなのに、キャラクターの雰囲気やストーリーが違って描かれていることが楽しいです。
 事実は一つのはずなのに、見る面や角度を変えるとちがって捉えられることがおもしろいですね。社会科の授業で一番伝えたいことと何だか似ていますね。また、やる気をもって何かに取り組むと、周りの物事がつながってくるから不思議です。

タッキー's Choice その3

画像1 画像1 画像2 画像2
いよいよ来週から学校が再開になりますね。みんなに会えること、みんなと授業ができること、とても楽しみです。( 生徒のいない学校は寂しすぎます。)体調を万全にしておいてくださいね。

さて、今回の「タッキー's Choice❤」は6月中に授業で扱う内容です。予習復習ができるように、映像やパワーポイントを今後もアップしていきます。しばらくは分散登校なので1日おきに通学することになりますから、家庭での学習に活用してくださいね。

前回の公開IDは「8308」太陽と季節の変化 と 「8414」金星の満ち欠け の2つです。
NHK for Schoolにアクセスして、プレイリストで4桁のID(半角数字)を入力してくださいね。

詳しくは、以前にアップした記事を見てね(^o^)

相談室より2

太田中の皆さん、こんにちは。

学校再開に向けて生活リズムを整えているところだと思います。その一つの手段として、朝日を浴びてみてはいかがですか?

朝起きてすぐに日光を浴びると、『セロトニン(別名:幸せホルモン)』という物質が増えるそうです。そうすると、心と体の調子が整うみたいです。

相談室のカワウソ【ルトラ】も、日光浴しながら皆さんに会える日を待っています。ルトラの後ろには相談ポストがありますので、心が疲れた時はいつでも利用して下さい。


悩みごと相談員

画像1 画像1

食塩の溶け方 答え

50gの食塩は、温度を上げていってもすべては溶けません。

なぜかというと、溶解度というものがあります。
食塩は、20度の水100gに対して37.8gしか溶けません。
また、100度にあげても41.1gしか溶けません。
物質によって溶ける量が決まっているんですね。

もしかすると1000度とか2000度にすれば溶けるかもしれませんが・・・
食塩と砂糖だと同じ水の量に対して、砂糖の方がたくさん溶けます。

下の溶解度曲線を参考にしてみてください。

参考 中1教科書p110

太田中 理科担当
画像1 画像1

太田中発  令和2年6月1日からの学校再開について

令和2年6月1日からの学校再開について

 このことについて、太田市教育委員会より次のように連絡がありました。

<太田市教育委員会より>
 「6月1日(月)より学校を再開します。感染症予防対策を行い、状況を見ながら段階的に教育活動を進めていきます。つきましては、概要を太田市のホームページに掲載しましたのでご覧ください。」

 そこで、太田中学校では、市立太田高校とも協議をしながら 次のような方法で学校を再開することといたします。また、本校では全校生徒の半数(約51%)が電車を利用して通学していることにも配慮して対応を決めさせていただきました。
 なお、次に示す対応を行う期間は、6月1日(月)から6月26日(金)までといたします。現在のところ、6月29日(月)からは、安全に配慮しながら通常の日程で行っていく予定でおります。予定を変更する場合には、改めてご連絡を差し上げますが、ご理解とご協力をお願いいたします。

<太田中学校の対応>
1 登校時、下校時の電車通学の生徒の安全にも配慮し、登校時刻、下校時刻は、次のとおりといたします。また、制服での登校、下校といたします。
〇登校時刻:9時30分
〇下校時刻:15時
※市立太田高校の登校時刻は9時となっております。

2 各学年とも学級をAグループ(出席番号奇数18人)とBグループ(出席番号偶数17人)に分け、教室内を半数の人数にして、一日おきの登校といたします。
※市立太田高校も、最初はA、Bの2グループでの一日おきの登校で再開することになっております。

3 Aグループの登校初日となる6月1日(月)とBグループの登校初日となる6月2日(火)については、3時間授業の後、昼食を食べて下校(13時を予定)といたします。各グループ2回目の登校となる6月3日(水)以降は、5時間授業後に下校(15時を予定)といたします。授業は1単位時間を45分で行います。6月3日(水)以降も、お弁当の用意をお願いいたします。

4 部活動については、休止いたします。通常の日程に戻った後(6月29日からを予定)は、できる運動から、安全に配慮し段階的に行っていく予定です。

5 学校生活においては、生徒の安全・健康を第一に考え、様々な場面で、「新しい生活様式」を踏まえて教育環境を整えたり、生徒への指導を行ったりしてまいります。
〇学習やその他の活動時など、生徒同士の間隔を空けるように配慮します。
〇生徒も教職員もマスクを着用し、飛沫感染の防止に努めます。
〇登校後、各授業時間終了後などの手洗い(石鹸で30秒)を徹底いたします。
〇休み時間ごとの定期的な換気、授業中も2方向の窓を開けての換気を行います。

6 ご家庭では、毎朝の検温を含めたお子さんの健康観察を十分に行っていただき、37度を超える発熱や、風邪の症状があるなど体調が悪い場合には、自宅で休養させてください。検温を忘れて登校した場合には、学校で教室に行く前に検温をさせます。登校後、37度以上の発熱や体調不良が見られた場合には、別室で待機させるとともに、ご家庭に連絡をさせていただき、早退させるようにいたします。

体力向上プロジェクトその5

画像1 画像1
暑さに強い体を作るためには、筋肉をつけることも大切です。今日は「力強い動きを高めよう」第2弾です。今回の動きは、太田中HPの動画にもアップします。スライドと動画を参考にチャレンジしてみましょう!

太田中 保健体育科

下をクリック↓
力強い動きを高めよう(2)

相談室より

皆さんこんにちは、太田中の悩みごと相談員です。

もうすぐ学校が始まりますね。長〜い休校中、色々な考えが皆さんの頭の中に浮かんできたと思います。今の気持ちはどうですか?

☆不安なこと・モヤモヤしていること等があれば、どんなことでも、相談室で話を聴きます。気軽に声をかけてください。

☆相談したいこと・困っていること等を紙に書く方法もありますよ。メモ帳・折り紙・ノートの切れ端・・・どんな紙でもOKです。書いたら、相談室前に置いてある『相談ポスト』に入れてください。名前も忘れずに書いてくれると嬉しいです。

 (次回、ブログに相談ポストの写真を載せます。)

課題頑張っていますね.

太田中生のみなさん、身体を動かしていますか?あと少しで学校が再開します。トップページの動画「うちで踊ろう」も活用して、体力を戻しておきましょう。「ステップ編」はかなり疲れますよ!実際にやってみましょう。

さて、2年生『∞輝生オリジナル問題集』について、再び問い合わせが入りました。そうです。模範解答が間違っていました。すみませんでした。みなさん、隅々までしっかりと解説を読んでいてくれてうれしいです。今回はB30の魔方陣の問題です。下に解説を載せたので確認してみてください。問題も載せるので、1、3年生もチャレンジしてみましょう。

第2学年 数学担当

画像1 画像1
画像2 画像2

You did a good job! (求輝生のみなさんへ)

 休校期間も残り約一週間となりましたが、元気に過ごしていますか?英語の音読に毎日取り組んでいますか?どんな言語の学習でも音読練習は基本中の基本とされています。かつて「同時翻訳の神様」と呼ばれた故・國弘正雄氏は、中学校の教科書を1000回以上音読し、英語の基礎を揺るぎないものとしたそうです。(少々古い本ですが、興味のある方は「國弘流英語の話しかた」を是非読んでください。)

 さて、みなさんの英語の課題を確認しました。内容は、「CDを毎日聞き、真似して言い、配布されたシートに記入する」とだけの記載で、特に回数は指定しませんでした。しかしながら7割以上のみなさんが全てのページに取り組み、とても嬉しく思いました。頑張りましたね。
 なかでも特に頑張った3名をここで紹介したいと思います。この3名に倣い、「自ら考え行動する太田中生」らしく、どんなことに対しても+αの精神で取り組んで欲しいと思います。いよいよ6月から学校再開です。お互い切磋琢磨しましょう。    
1学年 英語担当より

画像1 画像1 画像2 画像2 画像3 画像3

ファーブル 〜自分の目で確かめた真実だけを発信した人

太田中学校の皆さんへ(第16回)

★もうこのまま夏になってしまうのではないかと思うくらい、今年のゴールデンウィークは暑い日がありました。地球の温暖化の影響なのでしょうか、年々夏になるのが早く感じられるようになってきています。でも、私が子どもの頃は7月になってようやく暑くなり、夏休みが待ち遠しくなるという感じでした。

★そんな小学生時代の私の夏の楽しみは、家から自転車で30分ほど行った近くの林や森(山)でカブトムシやクワガタを採ることでした。夏休みには毎朝5時起きで家を出発し、クヌギの木を見付けては足で蹴り、木の上の方にいるカブトムシを落として手に入れるのが最高の楽しみでした。珍しいミヤマクワガタやヒラタクワガタなどに出会えたときはもう最高の気分で、一日何時間見ていても飽きることがありませんでした。一番多く飼っていたときには50匹以上いたと思います。

★そんなカブトムシ好きだった少年時代の私が読んで面白いと思った本の一つに、「ファーブル昆虫記」があります。なかでも私の記憶に残っているのは、ジガバチです。ジガバチはお尻の毒針で芋虫を刺して捕らえますが、殺すのではなく麻酔のように生きたまま眠らせ、巣の中で芋虫に卵を産み付けます。そして、ふ化した幼虫はこの新鮮なままの芋虫を食べて成長するという話です。ジガバチのその狩りの仕方にとても驚き、昆虫って不思議ですごいなと思ったことを覚えています。「ファーブル昆虫記」は、彼がそんな昆虫の驚くべき生態や本能などに真正面から向き合い、時間をかけて観察したことの一つ一つを私たちに分かりやすく教えてくれている本です。

★ファーブルは、1823年に南フランスで生まれました。この時代の日本では、まだ江戸幕府が鎖国政策を続けていました。ファーブルの生まれた家は彼を十分に育てられるほど裕福ではなかったため、彼は4歳から6歳になるまで、家から遠く離れた祖父の家で育てられます。そしてその大自然の中で様々な体験をしたファーブルは、7歳で生まれ故郷に戻り学校に通います。

★その後、父の仕事の関係で10歳で大きな都市に引っ越します。成績が優秀だったファーブルでしたが、父の仕事がうまくいかず、14歳で学校をやめて働きます。そんな中でもファーブルは、昆虫を見付けたり、自分で稼いだお金で本を買って読んだりしました。その後、貧しくても勉強好きなファーブルは、学費、住まい、食事をただにしてもらって勉強できる師範学校(教師になるための学校)の給費生になるための入学試験を16歳で受け、トップの成績で合格します。そこで、「昆虫記」の中でも有名な「スカラベ」(ふんころがし)を見付けたりする経験をしながら、19歳で小学校の先生になります。化学や算数、国語、ファーブルの授業は分かりやすく、評判となりました。

★そんな教え子たちとの授業の中で出会った「カベヌリハナバチ」に興味をもったファーブルは、「節足動物誌」(せっそくどうぶつし)という昆虫の本を買ってこのハチを調べ、昆虫学に興味を持ちます。20歳で結婚し、その後2人の子どもを亡くすという悲しい経験をしましたが、さらに頑張って数学と物理学を勉強した彼は、26歳でフランスのコルシカ島という島の高等中学で理科の先生となります。そこで、この島に植物採集に来た有名な博物学者から博物学者になることを勧められたりしますが、彼は4年後に思い出の師範学校で教師となり、そこで、目にした昆虫学者デュフールの論文に興味をもち、昆虫の生態研究の道を歩み始めます。

★周りの人たちからおかしな人と思われながらも、ファーブルは来る日も来る日も様々な昆虫の観察と実験を繰り返しました。そして、ゾウムシを捕るコブツチスガリというハチが、ゾウムシの神経を刺し、生きたまま動けなくする仕組みを論文にし、学会で高い評価を得るなどしました。しかし、生活が苦しかったファーブルは、大学教授になって生活を送るために必要なお金をつくるために、セイヨウアカネという植物の根から布を赤く染めるアリザリンという染料を簡単に取り出す方法を研究し、42歳でその方法を見付けます。これで、お金を手にできると喜んだのもつかの間、石油を使ってさらに簡単にアリザリンを作る技術がドイツで開発され、彼の研究は無駄になってしまいます。

★ファーブルは、セイヨウアカネの研究をしながら、自然科学を分かりやすく説明した本なども出版していましたので、それ以降は、本の出版で生活を立て直すことを44歳で決意します。その後、市民に様々なことを分かりやすく教える講座(授業)も受け持ったりしましたが、いろいろあって、45歳で教師をやめてしまします。そして、47歳のときに一家でオランジュという場所に引っ越してからのファーブルは、たくさんの科学の本を書きながら、なんとか家族の生活を支えます。

★その後、かわいがっていた16歳の息子を亡くした彼は、ショックで自身も病気になりますが、なんとか回復し、55歳で記念すべき「ファーブル昆虫記」の第1巻を完成させます。それからすぐに、セリニャンという村に家と1ヘクタールの庭(森)をもつ土地を買って引っ越し、ここをアルマス(荒れ地)と名付けた彼は、毎日昆虫や様々な生き物を観察しながら充実した日々を送ります。ファーブルは84歳になるまでの約30年間に「昆虫記」を10巻まで出版しましたが、本はあまり売れずに苦しい生活を続けたそうです。

★しかし、このままではあまりにも残念だと考えた彼の弟子やその関係者たちが、ファーブルの偉大さを多くの人々に知ってもらおうと、彼のための記念式典を開きます。この式には、知事や有名な人も多数参加したそうです。ファーブルが87歳のときのことです。この式典をきっかけに、彼の「昆虫記」は世界的に有名になり、彼のアルマスには、各地から大勢の人が訪れるようになります。それでも静かな生活を望む彼は、自分の庭が荒らされることなどを心配して、新聞広告に「そう長く生きることのできない私を静かにしておいてください」と載せたのだそうです。そして、1915年、91歳の生涯を閉じました。ファーブルの家のあったアルマスは、フランス政府により保存されているそうです。(参考:集英社 学習漫画 世界の伝記「ファーブル」)

★ひたすら観察と実験を繰り返し、自分が小さい頃から好きだった昆虫の魅力を、現代に生きる私たちにも興味深く、そして、分かりやすく教えてくれる「ファーブル昆虫記」は、小学生にも分かりやすい昆虫の入門書となっています。

★私たち太田中の教師も、ファーブルのように、太田中の皆さんのことを学校再開後じっくり観察し、皆さんの素晴らしさや魅力を大勢の人たちにPRしていきたいと思っています。

太田中学校長  今井 東

画像1 画像1

体力向上プロジェクトその4

画像1 画像1
 梅雨のような天気が続いていますね。今日みたいな日は、室内で柔らかい動きを高めましょう。「体の柔らかさを高めよう」第2弾です。呼吸を行いながら、ゆっくり行いましょう。

太田中 保健体育科

下をクリック↓
体の柔らかさを高めよう(2)

オンラインサポート授業 群馬テレビ放送予定

内容をご確認のうえ、ご利用下さい。
放送内容は予定ですので、変更になることがあります。

下をクリック↓
オンラインサポート授業 群馬テレビ放送予定 5月26日〜29日

105人の英知を集めた珠玉の問題集

2年生のみなさんへ
今週、電話連絡をしていると「数学の105問が・・・」「すべて解いたけど難しかった。」などの感想が寄せられました。『∞輝生オリジナル問題集』の解説を読んでも難しい問題については、6月になったら学校で解説します。できるところだけでも良いので、解いておきましょう。(もちろん、直接出題者に質問してもらっても大丈夫です。)
今日も、質問があった問題について解説を追加します。

A28 「なぜ、−と−をかけると、+になるのか説明しなさい。」

【解説】1年生の教科書P.29、30を読んでみましょう。
正負の数のかけ算は、東への移動を正の数、西への移動を負の数で表すことにします。
(+4)×(+2)は、プラス(東)向きで、2時間後(進む)ので、+8
(+4)×(−2)は、プラス(東)向きで、2時間前(バックする)ので、−8
(−4)×(+2)は、マイナス(西)向きで、2時間後(進む)ので、−8
(−4)×(−2)は、マイナス(西)向きで、2時間前(バックする)ので、+8
となります。
それなので、「−と−をかけると、+になります。」

計算は簡単にできますが、なぜそうなるのかの理由を考えると難しいですね。
休校期間もあと10日。なんとか乗り越えて6月の再開をむかえましょう。

第2学年 数学担当

画像1 画像1 画像2 画像2

ちょこっと理科問題パート6

画像1 画像1
水溶液の問題です。
小学校でも物質の水の溶けやすさなどを勉強しましたね。

20度の水100gに食塩を50g入れました。
すると、すべて溶けずに残ってしまいました。

そこで、すべて溶かすために水溶液を熱することにしました。
さて、熱せれば熱するほど、物質はどんどん溶けていくでしょうか?

また、食塩と砂糖はどっちが多く溶けるでしょうか?

野口英世 〜彼もまた、「エッセンシャル・ワーカー」

太田中学校の皆さんへ(第15回)

★1年生の皆さんがまだ入学前のことですが、2月20日の表彰集会の時に、私から新型コロナウイルスについて、現在の2、3年生の皆さんに話をしました。その話の中で私は、「細菌」と「ウイルス」の違いについて、細菌は細胞をもち栄養源があれば自分で増えていくが、ウイルスは細胞を持たないので、自分では増えないこと(人の体に入ったときは、人の細胞を借りて増えること)や、治療法として、細菌は抗生物質(こうせいぶっしつ=細菌の細胞などを攻撃することができる薬)などが効くが、ウイルスには効果がないこと、大きさは、細菌よりもウイルスの方がより小さいことなどを話しました。

★また、感染の仕方としては、「接触感染」や「飛沫感染」などがあること、そして、感染を防ぐ方法としては、手洗いうがい、咳エチケットの徹底、マスクの着用、免疫力を高めることなどが大切という説明もしました。あれから約3か月、感染を予防するための「新しい生活様式」という言葉ができるなんて、あの頃は予想もできませんでした。新型コロナウイルス、恐るべしです。

★さて、新型コロナウイルスのように、人から他の人へ「うつる」病気を、今では「感染症」と呼ぶのが一般的ですが、以前は、「伝染病」(でんせんびょう)と呼ぶ時期もありました。私が以前紹介した北里柴三郎もそうでしたが、彼より20年ほど後に生まれ、北里が開いた伝染病研究所で働いた「野口英世」(のぐちひでよ)も昔の呼び方で言えば「伝染病」と闘った医師でした。現在の1000円札の肖像が野口英世です。

★野口英世(子どもの頃の名前は清作・せいさく)は、1876年(明治9年)に福島県の猪苗代で生まれました。1歳半の時に家のいろりで左手に大やけどをした清作は、小学校では左手が不自由なことでいじめられ、辛い思いをします。その悔しさから、猛勉強をした清作は、学年で一番の成績をとるようになり、先生の代わりで他の生徒に勉強を教えることもありました。成績がよくても家が裕福でなかった清作は、小学校卒業後、家で母親を手伝い働こうと考えていました。

★ところが、優秀な清作をその上の学校に進学させてやりたいと考えた高等小学校の小林栄(さかえ)先生が学費を出してくださることになり、清作は13歳で高等小学校に入学します。清作はそこでも学年で一番になるほど勉強をしました。16歳になった清作は、先生や友達の助けももらい、左手の手術を受けます。そして、左手の指が少し動くようになったことに感謝し、医者をめざします。高等小学校を一番の成績で卒業した後、会津若松の医院で働きながら一生懸命勉強し、ドイツ語の医学書も読めるくらいになりました。

★20歳で東京に出た清作は、たいへんな努力をして医者になるための試験(2回受けて合格すると医者の資格がとれる)に21歳で合格します。その後、医学校で勉強を教えたり、伝染病研究所で働いたりしましたが、自分が望むような仕事ができませんでした。しかし、22歳で名前を清作から「英世」(英‥すぐれている、世‥世の中)に変えてからの彼は、その名のとおり、次第に世の中で、すぐれた活躍をするようになります。

★横浜の港で外国から入ってくる人や品物を調べて伝染病を防ぐ仕事をしている時に、ペスト患者を見付けた英世は、その後中国に派遣されペストで苦しむ多くの人々を助けます。24歳でアメリカに渡り、ペンシルベニア大学でヘビの毒について熱心に研究した英世は、27歳でデンマークに留学、翌年アメリカに戻って研究を続け、35歳で梅毒という病気のもとになる細菌スピロヘータの純粋培養(それだけを取り出して増やすこと)に成功し、その名を世界中に知られるようになりました。36歳(大正元年)でアメリカの女性と結婚してからも、英世は熱心に研究をし、次々と論文を発表したり、ヨーロッパ各国で講演をしたりしました。

★39歳で15年ぶりに日本に帰った英世は、2か月ほど母親やお世話になった小林先生と楽しい日々を過ごした後、アメリカに戻ります。その後42歳になった英世は、南アメリカで流行していた「黄熱病」(おうねつびょう・40度の熱が出て体の皮膚が黄色くなり、多くの人が亡くなる)の病原体を調べるためにエクアドルに行き、ワクチンを作り人々を救います(このことで、英世は勲章や名誉教授の称号を与えられたり、学校や道路に、「ヒデヨ・ノグチ小学校」「ノグチ通り」などの名前が付けられたりしました)。しかし、残念なことに、この年に英世の母親は、当時日本で大流行したスペイン風邪で亡くなってしまいました。

★悲しみを乗り越えた英世は、43歳以降、メキシコ、ペルー、ブラジルなどで次々に黄熱病と闘い、51歳(昭和2年)でアフリカのガーナに行き、黄熱病の研究に取り組み始めます。その直後に自身も黄熱病にかかってしまいますが、それでも英世は研究を続けます。しかし、ガーナに行って半年後、英世は黄熱病で51歳でこの世を去りました。英世のお墓はニューヨークにあるそうですが、そこには「野口英世、彼はそのすべてを科学にささげ、すべてを人々のために生き、すべての人のために死んだ」と書かれているそうです。(参考:集英社 学習漫画 世界の伝記「野口英世」)

★野口英世も、伝染病に苦しむ人たちのために命をかけて闘った「エッセンシャル・ワーカー」でした。英世の死後、黄熱病の正体は細菌よりも小さい「ウイルス」であることが発見されました。英世の生きていた時代にはなかった電子顕微鏡による発見でした。

★私たち太田中の教師も野口英世の困難に立ち向かう姿や努力する姿に学びながら、また、エッセンシャル・ワーカーの皆さんに感謝しながら、6月の学校再開後、この感染症から太田中の皆さんを守れるよう頑張っていきます。

太田中学校長  今井 東

画像1 画像1

神童・モーツァルト 〜 「モーツァルト効果」に期待!

太田中学校の皆さんへ(第14回)

★各学年の教員から休校中の皆さんへの電話連絡が本日から始まりました。前回の電話連絡と同様、家庭での生活リズムを守って生活できているか、課題への取組の様子はどうか、困っていることはないかなど、直接皆さんから話を聞かせてもらいます。どうぞよろしくお願いします。

★皆さんは、休校中の気分転換を上手にしていますか。なかには気分転換で、好きな音楽を聴いている人がいるかもしれません。音楽を聴くという人は、どんな音楽を聴きますか。クラシック音楽、例えば、ベートーベンとかモーツァルトが好きという人もいますか。そんな音楽好きの皆さんのために、今日は、「神童」(しんどう=並はずれた才能を持って生まれた子ども)と呼ばれた偉大な音楽家、「モーツァルト」(ボルフガング・アマデウス・モーツァルト)を紹介します。ちなみに、名前にあるアマデウスの意味は、「神に愛された人」だそうです。神はもちろん、亡くなってから230年経ちますが、これまで、そして現在もなお多くの人々に愛されています。

★モーツァルトは、1756年にオーストリアのザルツブルクで、父が宮廷音楽家をしている家庭に生まれました(宮廷音楽家とは、王や皇帝に雇われて生活している音楽家です)。モーツァルトには5歳年上の姉ナンネルがいましたが、小さい頃から姉のまねをして姉の楽器(チェンバロ)を弾いていました。そして、その才能を見抜いた父は、4歳のモーツァルトにレッスンをするようになります。その甲斐(かい)もありモーツァルトは、さらに音楽の才能を開花させます。5歳で作曲をしたり、6歳で姉と共に宮殿で演奏を披露したりと、その神童ぶりは多くの人から注目されるようになります。ザルツブルクのシュラテンバッハ大司教という人も、彼の才能を認めていました。

★モーツァルトを立派な音楽家に育てたいと考えた父は、6歳になったモーツァルトと姉を連れて、ドイツ、オーストリアに演奏旅行に出かけます。オーストリアでは、女帝マリア・テレジアやその娘のマリー・アントワネットの前でも演奏し大評判となります。その後もヨーロッパ各地を演奏して回り、14歳でローマ教皇から勲章をいただいたり、イタリアで一番権威のある音楽家たちの会(ボローニャ音楽協会)の会員に合格したりしました。そして、初めてミラノの宮廷からオペラの作曲の依頼も受けるまでになりました。

★モーツァルトを応援してくれていたシュラテンバッハ大司教が1771年に亡くなってからは、新しい大司教から厳しい扱いを受け、モーツァルトは、なかなか思うような音楽活動ができませんでした。そこで、21歳になったモーツァルトは、母と共に自分にふさわしい音楽家の仕事を探して旅に出ますが、なかなか仕事先が見つかりません。また、旅の途中で美しい歌手アロイージアと出会い彼女を好きになりますが、これも失恋に終わります。結局、23歳で故郷のザルツブルクに帰ることになる彼でしたが、故郷に帰る直前には母も亡くしてしまいます。

★よいことがなかったモーツァルトでしたが、帰った故郷で宮廷音楽家をしながら、オペラ「イドメネオ」を作曲し成功を収めます。その後もオペラを作曲したい気持ちが抑えられなかった彼は、ついに大司教と対立して25歳でザルツブルクを飛び出し、ウイーンで新しい音楽家生活を始めます。その後、オペラ「後宮からの誘拐」、交響曲第35番、36番の作曲などを次々に行います。26歳の時には、コンスタンツェ(以前、彼が失恋した歌手アロイージアの妹)と結婚もしました。

★さらに30歳でオペラ「フィガロの結婚」、父を亡くした31歳の時に「ドン・ジョバンニ」、35歳で「魔笛」(まてき)を完成させ、あまりにも早い35年の生涯を閉じますが、「魔笛」をつくっている最中(死の直前)に見知らぬ男から依頼された最後の曲「レクイエム」は未完のまま終わりました。あふれ出る才能で、短い生涯のうちに、たくさんの交響曲やオペラ、ピアノ協奏曲などを次々に作ったモーツァルトは、神様に愛されたがために、早く神様のもとに連れていかれたのかもしれませんね。

★余談になりますが、モーツァルトの音楽を聴かせながら作った野菜やお酒がおいしくなるという話を時々耳にします。これを「モーツァルト効果」と言うのだそうです。

★私たち太田中の教師も休憩時間にモーツアルトの音楽を聴くと、「モーツァルト効果」でよい発想が浮かぶかもしれませんので、今度試してみようと思っています。

太田中学校長  今井 東

画像1 画像1

2年生のみなさんへ

「∞輝生オリジナル問題集」に取り組んでいますか。難問もありますので解説をよく読んで理解を深めておきましょう。模範解答に抜けてしまった箇所がありました。

A17(3)
【解説】Bは5分間で6回転することが(2)の答えでわかるので、12回転するには10分かかる。

前回の課題「マイノート」づくり、みなさん頑張りましたね。教科書の内容をしっかりとまとめ、練習問題で実力を伸ばせましたね。もう少し家庭学習期間が続きますが、乗り越えましょう。

第2学年 数学担当

画像1 画像1
画像2 画像2

動画配信のお知らせ

太田中では、今日から第2回の電話連絡が始まりました。
また、6月からの学校再開に向けて、三密に配慮した受け入れを準備しています。

自宅待機の期間が長くなり、運動不足の生徒も少なくないのではないでしょうか。
そこで、体力を向上させるための動画(体力アップ動画)を作成しました。
下記の手順で、ご視聴ください。

【動画の見方】
1)太田中ホームページの「太田中動画のページ」をクリックする。
2)パスワードを入力する。 (※パスワードは別途配信済み)
3)見たいテーマを選択してクリックする。
  YouTubeにて動画を視聴することができます。

ホットケーキ問題の答え

今回の問題は、ホットケーキが膨らむ理由は何かということでした。
正解は気体(二酸化炭素)です。

ベーキングパウダーを入れることがヒントでしたが、
熱せられることによって、二酸化炭素が発生し、それが原因で膨らみます。

ベーキングパウダーのもとは炭酸水素ナトリウムです。
他にも重曹がそうです。調理中に「はい、炭酸水素ナトリウムを入れましょう。」と言われると何か嫌ですね。
成分が少し違うという話がありますので、興味をもった人は調べてみてください。

参考 中2理科教科書p13〜p17


新しいスライドもアップしましたのでよろしくお願いします。

太田中理科担当


画像1 画像1 画像2 画像2
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

お知らせ

理科

太田市立太田中学校
〒373-0842
住所:群馬県太田市細谷町1510番地
TEL:0276-31-3322
FAX:0276-31-3466