最新更新日:2024/05/02
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少しずつ暑くなってきています。帽子をかぶり、暑さから身を守りましょう!

3月18日 卒業式・式辞

 式辞

 やわらかな春の日差しが増し、桜のつぼみもふくらみ始めた今日の佳き日、天美小学校を巣立つ六十名の皆さん、卒業おめでとうございます。
 そして、子どもたちの大きく育った姿に、感慨もひとしおの保護者・ご家族の皆様、おめでとうございます。

 また、公私ご多用中にもかかわりませず、晴れの卒業の日を迎えた子ども達のために、ご臨席を賜りました、松原市教育長の東野光弘(とうのみつひろ)様を始め、議員各位の皆様、また、地域・PTAの役員の皆様、誠にありがとうございます。皆様のご臨席を得て、平成30年度卒業証書授与式を挙行できますことを、心よりお礼申し上げます。

 さて、天美小学校を巣立つ卒業生の皆さん。今、天美小学校で過ごした6年の歳月(としつき)が、昨日のことのように、よみがえっていると思います。
 そして、これから中学校という、新しい世界に、広く大きなステージに羽ばたこうとする皆さんに、三つの言葉を贈りたいと思います。

 一つ目の言葉は、「人生の鍵は自分が握っている」という言葉・考え方です。
 校長先生は、今、毎日楽しみにしているドラマがあります。昨年の秋より始まったNHK連続ドラマ『まんぷく』です。世界で始めて即席麺・チキンラーメンを開発した夫婦の物語です。主人公の夫婦は開発までに何度も壁にぶち当たります。そして、開発してからも様々なピンチに見舞われます。そもそも、この世の中に存在していない物を、新たにつくろうとしているのですから、つくれるのかも成功するのかも分かりません。そんな先の見えない壁を、決してあきらめず、失敗してもあきらめるのではなく、失敗はまちがった方法が見つかったとして、新しい可能性を探し続け行動します。
 そのドラマを観ていて、以前読んだある本を思い出しました。
 第二次世界大戦中ナチスドイツがつくった強制収容所・アウシュビッツから奇跡的に生還した精神科医ヴィクトール・E・フランクルが書いた『夜と霧』という本です。その本の中で、彼は強制収容所という過酷な環境で、尊厳を保ち生き延びることができた人について、こんなことを述べています。「人間を強制収容所に入れることで、人間から全てのものを奪うことができるが、ただ一つ与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」と。そして、そのような精神的な自由と人間性の尊厳を失わなかった人が生き残ったと。
 これから君たちの人生には、学びや友達関係の広がりの中で、新しい世界や人生の楽しみ喜びが待っているでしょう。しかし、誰の人生にも、様々な困難辛苦があることも事実です。
 その時、その壁に、人生の希望を失うのか?希望を持って歩むのか?そのつらさ故、自暴自棄になってしまうのか?それとも、自分のことを大切に思ってくれている人がいる。その人のためにもがんばろうとするのか?苦しい、しんどい時だからこそ、他者への思いやりを忘れず、ユーモアの心や明るさを持って、自分自身、周りの人の心に灯り(あかり)をともし、重たく暗い雰囲気を変え、和やかで前向きに歩める仲間やチームをつくるのか?その道を決めるのは、自分自身に与えられた最大の自由なのです。「人生の鍵は、自分が握っている」のです。

 二つ目の言葉は、ATMで生きよう!と言う言葉です。
 校長室には、「天美小学校教職員は、ATMで働きます! A:明るく! T:楽しく! M:前向きに!」という掲示物を張り出しています。
 この言葉は、ある会社の社長さんの言葉です。その会社の経営方針です。校長先生が松原市教育委員会で働いている時に、その社長さんに出会い、その言葉・考え方を知りました。その時以来、松原市教育委員会でもことある毎に、ATM、明るく楽しく前向きに働こう!と言ってきました。天美小学校の校長としても、ATMで働きます!と天美小学校の教職員に呼びかけてきました。
 それは、今の校長先生、私を育てつくってくれた両親の生き方とも重なったからです。
父は、6年前92才で亡くなりました。6年たった今も、父の前向きな思いに支えられている気がしています。
 大正11年生まれ、7人兄弟の長男として、父の父が病に伏してからは、弟と妹の父親代わりを努めた父でした。戦争中は兵役も勤め、終戦後は地下1000mの暗くて蒸し暑い坑道で、石炭を掘り出す炭鉱労働者として働きました。しかし、石炭に代わる石油中心のエネルギー革命の中で、父の働いていた炭鉱は閉山になりました。会社が潰れたのです。私が小学校3年生の時でした。そして、同じ山口県内の別の炭鉱に就職しましたが、そこも先の見通しが悪く、仕事を求めて兵庫県まで移ってきました。私は小学4年生でした。
 校長先生は、2年続いた転校で、さらに二度目の転校は山口県から兵庫県への転校で、戸惑うことも多く、勉強にも全くついて行けなくなり、いわゆる非行に明け暮れる毎日でした。勉強にも何事にも投げやりな毎日を送っていました。
 そんな生活を送っていた小学6年生の、確かとても蒸し暑い7月だったと思います。父が過労、働き過ぎで倒れたのです。
 父は、尋常高等小学校しか出ていません。その父が当時小学生の私、中学生の姉、そして、母を養っていくために、働いていた製鉄所で最も給料がもらえる部署を希望して働いていました。その部署は1500度を超える溶けた鉄を扱う部署でした。1500度の高温でとても眩しいので、分厚いサングラスをかけて働いたそうです。暑くて大量の汗をかくので、毎日、職場ではやかんで何杯もの水を飲むと言っていました。しかも、暑くてもやけどを防止するため、夏でも長袖の作業着だったそうです。
 そんな父の当時の唯一の楽しみが、仕事から帰って家で飲むビールでした。ジョッキに注いだビールを飲み干し、(あー!)という美味しそうな声を上げる父の横顔は今も忘れません。
 その父がビールのジョッキに手をかけようとした瞬間倒れました。母、姉、私の目の前で倒れたのです。その夜は、往診で来てもらったお医者さんに、注射を打ってもらって父は眠りにつきました。翌日、学校に行くときも父は眠ったままでした。学校でも(お父ちゃん、生きてるかな?大丈夫かな?)と心配がよぎり、学校が終わると急いで家に帰りました。
 その時、父はすでに50歳になろうとしていました。50歳の父の身体には、仕事が厳しすぎたのです。しかし、家族を養うために、少しでも手当が高い部署を自ら希望して働いてくれたのでした。
 何日か家で休養した後、父は仕事に戻りました。以前の部署は父の身体には厳しすぎたので、部署替えをしてもらって定年まで働きました。母も皿洗いのパートに出ていました。
 そんなことがあって、(こんなことしてたらあかん)と思うようにもなり、先生や友だちにも恵まれ、高校にも進学することもできました。
 当時の我が家の家計では、大学に進学する余裕がありませんでした。しかし、父は製鉄所を定年になった後、近くのダム建設現場に日雇いの仕事に出かけ、私を大学に行かせてくれました。
 そのダム工事の建設現場で、労働災害や事故をなくす標語に父が応募した標語が採用されました。「人の和と明るい職場に事故はなし」「人の和と明るい職場に事故はなし」。その標語がタオルに印刷され、ダム工事の建設現場で働くみんなに配布され、父もそのタオルを誇らしげに持って帰ったことを憶えています。
 それから、三十年後に出会った言葉が、ATM、明るく、楽しく、前向きに働こうでした。同時に、父の標語「人の和と明るい職場に事故はなし」を思い起こしました。
 父とその社長さんを比較するのは傲慢かもしれませんが、共通するのは人生の様々な苦労やピンチを乗り越える時、力になったのが、自ら明るく課題に向きあい、仕事に励み、苦しい仕事を楽しみに置き換える人間としての技量の広さを持ち、一緒に働くみんなを和やかで明るいチームや職場にしてきたのだと思います。
 校長先生も60年生きてきて、40年近く働いてきて、自信と確信をもって言えるのが、「明るく、楽しく、前向き」に向きあうことが、人生も仕事も有意義にするし、ピンチや困難な局面で大きな力になり、自分自身も職場やチームも成長するということです。
 これからの長く大きな人生の中で、苦しい時、ピンチな時ほど、ATM、 明るく! 楽しく! 前向きに!生きて下さい。

 最後に贈りたい言葉は、「人に負けても、自分に負けない」ということです。
 これは、君たちがヒロシマ修学旅行の事前学習で学んだ、一昨年、97歳で亡くなられた被爆者佐伯敏子さんの言葉です。
 生前、佐伯敏子さんが、いつも聞き取りの最後に、自身の人生訓として語っておられたのが「人に負けてもいいから、自分に負けない人になって下さい」という言葉でした。
 君たちは、佐伯敏子さんの思いを学んで、ヒロシマ修学旅行に向かいました。そこで、平和公園に来ている海外の方々に、英語でのインタビューにも挑戦してくれました。インタビューで書き取った海外の方々のメッセージを見ていると、「原爆や武器のない世界に」などというメッセージと共に、「友情」「協力」「親切」「互いにリスペクトしよう」という、自己中心の考えではなく、周りの人々、周りの国々との信頼や協力といったメッセージにもたくさん出会いましたね。そのような考え方も、「人への勝ち負け」にこだわらず、自分の良心・信念を大切にしようという佐伯さんの考えと通じるものがあると思います。
 人と人との関係には、諍い(いさかい)や争いは避けられないかもしれません。しかし、その解決を一方的に相手を打ち負かすのではなく、(自分の責任は?)と自分を問い返したり、(相手も自分も双方が納得できる解決策は?)と、自分自身を高める方法を最後まで模索してください。人を打ち負かした喜びよりも、自分がすべきこと、自分が言うべきこと、人間として真の強さとやさしさを持って生きてほしい、そんなことも、佐伯さんの伝えたかったことだと思います。
 「人に負けても、自分に負けない」、そんな強い生き方をめざしてください。

 皆さんとは、3年間のお付き合いでした。3年前、校長先生が赴任した年、9月の運動会の練習は雨続きでした。何とか練習ができるようにと、ぞうきんとバケツを持ってグラウンドの水を抜き、一輪車で数十回、砂を運びまきました。その時、ちょうど皆さんは、4年生。水抜きや砂入れをしている校長先生たちに、北館3階の教室から、休み時間に大きな声で、「校長先生、がんばって!」「校長先生、ありがとう!」と、声をかけてくれました。うだるような暑さの中、その声かけにどれだけ励まされ、疲れてもがんばろう!と思ったことか分かりません。そんなことも、昨日のことのように思い出します。
 正直に言うと、卒業する皆さんへの祝福の気持ちと、巣立ってゆくことの寂しさと、両方の気持ちがあります。6年生の担任の先生は、なおさらでしょう。皆さんを永らく見てきた、天美小学校の先生も後輩も、そんな思いでいっぱいだと思います。名残は尽きません。

 卒業する皆さん、
 「人生の鍵は自分が握っている」
 「ATM、明るく・楽しく・前向きに生きよう」
 「人に負けても、自分に負けない」

 この言葉を、人生の新しいステージを歩む君たちへの、はなむけとして贈ります。そして、校長先生も第二の人生を生きる戒めとして、約束したいと思います。

 最後になりましたが、本日ご臨席いただきました保護者・ご家族の皆様に心よりお祝いを申し上げます。
 この6年間、様々な事があったことと思います。時には、悩んでいる姿にいつもと違う様子に、ご心配をおかけしたこともあったと思います。しかし、そんなことも、人生という長い階段の踊り場であったり、人間として成長するための節目であったのではないでしょうか?
 これから、天美小学校の職員一同は、少し離れたところから、卒業生を見守っていきたいと思います。

 それでは、卒業生の皆さん、天美小学校の卒業生として誇りを持って、未来に向かって新たな一歩を踏み出してください。みなさんの大いなる活躍を期待します。

 最後に、ご来賓の皆様、保護者の皆様に、心より感謝とお礼を申し上げ、式辞といたします。

平成三十一年三月十八日
松原市立天美小学校長
橋本 巧一     

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